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日々の破片

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2014-07-28

_ 理解と納得のマーニー

子供が観たいなぁというので、家族で思い出のマーニーを観て来た。

おもしろかった。演出がうまい。

YAジャンルということなのだろうけど、原作にどこまで描写されているのかは知らないが、次のように人物を分離して構成してあるのがうまい。

・理解していない(したがって納得する必要もない)→さやか(小学校の中学年くらい)

・理解しているが納得できない(折り合いをうまくつけられない)→アンナ(中学生。算数ではなく数学の教科書を持ち込んでいるから中学生ということがわかる)

・理解しているし納得している(あるいはあきらめることで折り合いをつけている)→それ以外

まあ、文学読んでぐしょぐしょ考える人は大体真ん中にカテゴライズされるから読者に対して提示する主人公としては当然のスタンスだ。

最初に主人公のスタンスを画が(物語上は)うまいということと、それを教師に見せて誉めてもらいたいにも関わらず素直に見て見てとは言えずにぐずぐずためらって機会を逃すというシーンで示す。理解して欲しいスタンスをモノローグの多さでも示す。

唐突に金の話を持ち出すことで、母親(と最初の時点では見ていてこちらは考えているのだが実際は義母)に自分は知っているぞと何か(この時点ではわからない)ほのめかすシーンで示す。

青い妙な顔つきの列車に乗る。これって南海のガンダム列車の赤くないオリジナルと同じかな?

タヌキの置物が車に乗っている。

親類の家であえて母親のことをおばちゃんと表現することで自分のスタンスをほのめかす。

部屋が気に食わない。他人の生活が匂うからだ(まさに自分の立場を理解しているが納得していないことが示される)。ベランダから外を見ると鳥と小舟を漕ぐまるでミレーの画に出てきそうなひげの人物が見える。このひげの人物は常に第三者の視点を提供するために用意されているということが示される(視線なので口をきかない。ある一点までは)。同じように第三者の視線を与えるものとして趣味の画家のおばさんが後から加わる。

ちかみちの看板がそこら中にあることで、親類のおっさんが最初から用意していることがわかる。大切にされてることが知らされる。

ポストにおばさん(に見える)が二人やって来て、委員長がどうだか話しているのを見かけて隠れる。

親戚のクライアントの立派な屋敷に行く。政治的に上位の立場の住人ということがわかる。

ポストで見かけたおばさんが実は同世代ということが示される。主人公に対して大人なのだ。実は理解も納得もしているということを主人公が書いた短冊の文言を無理やり読むエピソードが示す。主人公は自分のスタンスをアピールしているのだからそれが相手に理解されていることは理解しているのだが、大人ではないので納得していない。したがって、暴言を吐く。もちろん、相手は自分が暴言ドンピシャなことを理解もしているし納得もしているので、相手に対しても同等に振る舞う。でも主人公は納得していないから、和解を拒否する。そこでおばさんっぽい女の子はその拒否に対して怒る(政治的に親を利用して抗議することになるが、それによって親戚の夫婦のスタンスが明確化される。説明が数珠つなぎになっているだけなのだが、そこをうまく絵でつないでいる)。(追記:この一連のシーンは非常に主観的な恐怖描写となっていて、まるで松本次郎のフリージアのようだ(テーマも同じだ)。和解案直前のおばさんっぽい女の子による、主人公の恐怖感そのものに対する本質的な指摘の迫力は、そこに語られていない何かがあった可能性を感じさせるし、そこから、デブの親による抗議の中にはシーンとしては表現されていない主人公の行動が含まれるのは、それが単におばさんっぽい女の子とその母親の政治的な悪意のある大仰さなのか、それとも主人公が実際に取った行動の異常さ(主人公の主観には出現しない)ものなのかを曖昧なものとしている)

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(同様なテーマを扱っている作品がフリージアなのだから、幼児が楽しく観られる映画ということはないなぁ)

物語はまるでヘンリージェームズの心理小説のようにホラーじみてくる。

ここで子供が入ってくることでバランスが変わる。

主人公は許すことで折り合いをつけることを学ぶ。

それまで第三者の視線の提供しかしなかったひげの釣り人と画家が理解度を深めるための説明をする。

この説明によって観ているこちらは完全に理解し孤独やら愛情やらに感動する。一番の山場だ。

ところが、この作品がうまいのは、山場を最後ではなく、途中に置いたところにある。不覚にも目が赤くなったとしてもクールダウンするための時間が十分に取れるようにしてある(主人公と同様なカテゴリーの人なら、たかが映画を観た程度で目やら鼻を赤くした状態で劇場から出てくるのは避けたいものだろう)。

そのためには、主人公が理解していてかつ納得していないのではなく、実は理解すらも完全ではないことにした。まだまだ子供ですな、ということだ。

かつ、合理的な説明がつくようにも心を配る。赤ん坊がどこまで言葉を理解し深いところに記憶できるかどうかは別の話であって、物語としては十分な説明だ。その一方でゴーストストーリーとして納得することも全く問題なく(1人で置き去りにしたことを許してもらったことで成仏できるわけだし)、うまく語られている。

最終的に主人公は自分がどこから来たのかを完全に理解し、現実について納得する。つまり成長した。

したがって、母親が金の話をすると、実はそれは理解していたのだと語る。それは正直な気持ちである。その一方で、マーニーに語った金をもらっていることを許せないという気持ち(つまり納得していない状態)もその時点では正しかった。

納得できて良かったね。現実はまったく変わっていないのだが、心持が変わるだけで世界が微笑みかけてくる。良い終わりかただ。

演出でおもしろかったのは、主人公と踊っている最中のマーニーの顔に表情の変化が一切なく人形のような点だった。主人公は誰かとダンスを踊ったことがなかったのでパートナーの表情がわからないのだ。

理由はわからんが、子供は原書を買っていた。

When Marnie Was There (Essential Modern Classics) (English Edition)(Robinson, Joan G.)

原題と邦題は随分と印象が異なる。でもthereは話者の視点からの位置関係を示すこそあど言葉のあそことは異なる概念で、コンテキストを共有する全体との位置関係でも向うとなるはずなので、過去形であることを踏まえると、思い出と訳したのは意味としてはより正しいのかも知れない。

_ クマとウサギ

というわけで、おれが一番美しくかつ感動的なシーンと感じたのは、クマとウサギのぬいぐるみのシーンだ。死期を悟った、ほとんど何も残っていないのに、しかし唯一残った大切なものだけを残していかなければならない心持ちを、静かに表現していて、しかもそこには悔恨がなく真に幸福を感じた時の思い出だけが語られる(でももちろん置き去りにせざるを得ないことに対する悲哀もある)。構図も音も絵もすべてが素晴らしい。

すべては、ここに至るまでを一息に語るための仕掛けだと解すれば、主人公が世をすねまくっているほうが都合が良かったのかも知れない。

かくしてタイトルが生きてくる。語られる存在としてのみ、本当の主人公は存在しているからだ。


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