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日々の破片

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2019-12-07

_ 新国立劇場の椿姫

パパタナシュが最初、特にセンプレリベラの出だしが気になったのだが、今ひとつ指揮者と息が合わないのか妙に小さく産んで大きく育てるみたいな歌いっぷりで、なんだかなぁみたいなところはあったのだが、2幕になると一転、すばらしい。アルフレードのチェネスという人も、乾杯の歌とかはまあこんなものかなと思って観ていると、2幕が始まって嬉しい嬉しいから、ズンタタタッタ経由のこの恥辱晴らさでおくべきかでは、おお、良い歌手じゃんとほれぼれする。というか、ジェルモンの須藤という人も良いジェルモンの代表みたいでおれは好きだ。パパタナシュも本当に良い。最後のたかだか2フレーズの絶唱も抜群。

というわけで2幕(1幕2場かな?)になって、とても気に入る。

休憩挟んで2幕2場になると、特にヴィオレッタの悲痛な心の叫びの部分が極度にテンポを落とすのだが、指揮と合わせて実に良い。

というまま3幕に入って。手紙の朗読の声含めて抜群のまま終わった。とても良かった。

それにしても、イルトロヴァトーレみたいな曲だなとあらためて感じたのは、特にアルフレードのこの恥辱晴らさでおくべきかがまるでマンリーコの復讐の炎は地獄のように燃え盛りみたいだし、フローラの館(かな)の演目のジプシーの花占いから闘牛士のジプシー風スペインがこれまたイルトロヴァトーレみたいだからだ。スケッチで書き散らかした曲の再利用ってことはないのかなぁ。

今年度は新制作が多い分、海外からの歌手を2人に抑えて旧作の客が呼べる演目という選択なのだろうが、まったく良いものを観られた。大野監督ってビジネスセンスがあるようだ。


2019-12-01

_ ライオンキング

大井町で劇団四季のライオンキング。

開演直後10分間は入場禁止とか書いてあるので何事かと思ったら(もっとも、新国立劇場では開演したら一切入場禁止だから甘いといえば大甘ではある)、観客席の通路を花道として動物たちが集合してくるからだったのだが、脇を巨大な犀(逆側は象)が通り過ぎたのには驚いた。とにかく動物の衣装が素晴らしい。特に出ずっぱりの豹の後ろ脚の造りのうまさには感嘆する。

音楽も物語もほぼ映画のままだが、ヌーの大群のシーンの再現方法のうまさには感心した。ハイエナの首の再現もうまい。

シンバとナラの再会のシーンがどうもバランスとして短く思ったら、後で数年前にも観ている子供が、ファミリー用に表現を抑えて短縮したみたいだと言っていた。映画版を含めて、妙にエロティックなので人間が演じるとそれが強調されるので自主規制したようだ。なんだかなぁとは思うが、舞台として瑕疵というわけではない。逆にミーアキャットがヌーの大群のシーンの再現をしてシンバがびびるというのが映画にはない情景として付け加えられているが、ちょっと蛇足のようには思った。

というわけで子供がたくさん観に来ているのだが、観劇方法を躾けられているのかお行儀が良くて結構なことだが、目の前に陣取った二人組は遅れてのこのこ堂々とウォーキングトールで入って来るし、スマホをいじくりまわすし(本当にそういうやつが藁人形ではなく実在することにある意味感心した。ここまで人間は堕落できるものなのだ)、首を振りまわすしで、ひどいものだった。開演直後10分は逆にいなかったせいで良く舞台が見えて結構なことではあったけど。

大井町は遠いがなかなか楽しめた。

・阪急と東急でなにか百貨店進出のバーターでもあるのかな? と思わされる阪急百貨店の存在。


2019-11-30

_ ミュージカルの天使にラブソングを

シアターオーブで天使にラブソングを

いきなり、逝かせて天国 という下品極まりない曲で始まって(おれは、映画版も見ていないのでウーピーゴールドバーグが逃亡先の修道院でコーラス隊を成功させる話、程度の知識しかなかった)マイクをポールみたいに使ったりして一体これはなんだ? と唖然とするとともに、音楽の絶妙なうまさに感嘆する。これはよほどのモータウン野郎が作曲したに違いない。

話が進むと歌っていたのはドロレスという名前で、ナイトクラブを経営しているギャングの親分の情婦で、歌手デビューさせてやるといわれているということがわかる。わかるが、親分はまだだめだと言い放つ。このあたりの理由はさっぱりわからない。実際歌は抜群という設定なのは子分たちの反応からも(物語の中でも)わからないわけではない。

さらにクリスマスプレゼントが親分の奥さんのおさがりの趣味が悪い毛皮ということで憤然として店を後にする。のだが、悪いことは重なるもので、裏切り者の処刑の場面を目撃してしまう。

その足で追っ手をまいて警察に駆け込むと、高校時代の同級生の汗かきエディというやつがいて、彼のアイディアで裁判での証言までの間、修道院に匿ってもらうことになる。

一方、修道院のほうは、院長の厳格主義が災いしてまったくぱっとしない(要は信者が減る一方なので喜捨が集まらない)。日曜のミサの後にアンティーク商への身売り話がほぼ決まっている(ゴシック造りの立派な修道院なのだ)。

唐突に、坪内逍遥の「尼寺へ行け」というのは名訳だな、と考える。明治時代に修道院じゃ(トラピストのあたりにでも住んでいなければ)意味がわからなかっただろう。でも待て、修道尼院(にいん)が正しいんじゃないか? 修道院じゃ修道士のほうだ。

それにしては修道尼(しゅうどうに)というのを見た記憶がない。修道尼院は普通に見かけるにもかかわらず。代わりに修道女と呼ぶ。でも、修道女院とは言わない。なんでだ?

いずれにしても、舞台の上で修道尼院と発話されても観ている側にはまったく通じないだろう。文章用語だ。けだし、「尼寺へ行け」は名訳だな。

音楽が素晴らしいのは、すったもんだの末、合唱指導を院長に命じられて少しずつ歌わせていき、最後に盛大なコーラスになる部分で、ここは抜群に感動的で思わず涙がこぼれそうになる。

結局行かせて天国が神様にお願いの曲として復活するのだが、それは身バレの元にもなるとかいろいろうまい。

汗かきエディがなぜおれは汗かきエディなんだ? と嘆く歌は、オンザタウンのゲイビーの寂しい歌に匹敵する抜群な寂しい歌。ジョン・トラボルタが憧れの成りたい男として出て来て、その時代を舞台にした作品なのだなと良くわかる。

さて、第2幕。途中、プログラムを見て、作曲がアラン・メンケンと知ってびっくりする。まるでポール・ウィリアムズ(ファントム・オブ・ザ・パラダイスの中で50年代R&Rからサーフィンサウンド、オペラ風の曲、ハードロックと何でもかんでもそれなりに見事な曲を作りまくっている)みたいに何でも作曲できるんだな。

修道女たちの服がどんどこ煌びやかになり、神父(修道尼院じゃないのか? 良くわからん)がノリノリで金儲けに走るのは普通におもしろい。

神出鬼没ギャグが2回。

女の口説き方についての子分3人組の見事な歌(曲)があり、親分の悪くないナンバーもあるが、院長がまるでプラシド・ドミンゴか? とうんざりするほどかすれ声の歌を歌うのだが、その曲を除けば立ち居振る舞いも立派、演技はしっかり声もすごくて、さすが鳳蘭って大スターなのだなと納得もした。

とても抜群なミュージカルだった。というか、曲も鼻声テノール用のミュージカルソングではない(その気になればエディはそういう風に歌えるかも知れないが、そういう演出ではない)、とても良いミュージカルで大変気に入る。

Sister Act(The London Theatre Orchestra and Cast)

この作品の脚本家は、リーダーシップの本とか読んで練ったのではないかと考えさせる点がいくつか。

最初にファンを作り、一番弱いメンバーを大切にし、地位を追われるのではと反対工作に走りかねない古株を立てることで懐柔するとか、そのあたりの作りのうまさ。

そういえば、ドロレスは高校時代に合唱を一丸となって成功に導かせた立役者だと汗かきエディに述懐させる台詞もあった。

結構、そのあたりが話の中に良い味付けになっていて、それもおもしろさにつながっているのだと思った。

# 突然、ルーダンの悪魔を思い出した。

ルーダンの悪魔(オルダス ハクスリー/中山 容/丸山 美知代)


2019-11-09

_ ドン・パスクワーレ

新国立劇場でドン・パスクワーレ。なんと7分入りくらいでおどろく。Aの2F中央で観たのだが、目の前2列に人はいないし、後ろはほぼ無人、ギャラリー席はがらがら、なんともったいない。大した知名度がある作品ではないから、ドゥ・ニースを呼んだのだろうが降番してしまったので埋まらなかったのかな。

ドン・パスクワーレはロベルト・スカンディウッツィという人。アトレだとくそまじめな人がくそまじめだから可笑しみを誘うのだとか主張していたが、なるほど、そういう歌と演技で抜群。というかバスにもコロラトゥーラがあると(この曲は聞いているのだがちゃんとは気付いていなかった)思い知らされた。

メトのポレンザーニ、クヴィエツェン、ネトレプコのビデオだとそうは読めなかったが、ブルジョア革命成立後の、正しいブルジョアジーの在り方を啓蒙する、クリスマスキャロル(1843年)のような物語だったのだな。金持ちはばんばん人を雇い、贅沢な商品を買いまくるのが正しい、というやつだ。ドン・パスクワーレも同じく1843年だから、おれの見立ては驚くほど正しい。

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(もちろん歌手の布陣からして最強なのだが、おれは今回の新国立の舞台のほうが良かったと思う)

ドゥ・ニースの代役はハスミック・トロシャンという人。金切声になるところがあってそれはすごく嫌だったが、コロラトゥーラはきれいだし、ドン・パスクワーレに紹介されるところで手にした花束をくるくる回したり、威風堂々と叱りつけたりとか立ち居振る舞い含めて、これは良いノリーナで、兄貴のマラテスタのピッツーティという人はうまいのなんのって、実に良い舞台だ。こういうおもしろい作品に人が埋まらないというのは悲しいことだな。特に二幕冒頭のドン・パスクワーレとノリーナの二重唱、曲、演技、歌唱すべてにおいて抜群だったのに。というか、曲の楽しさと歌手の組み合わせの妙とか、愛の妙薬よりも遥かに作品としては優れていると思うのだが、そうはいかないのだな(おそらく内容の啓蒙っぷりが、映画泥棒と同じくマッチしていないからだろう。観劇に金使っている人に金を使えというのは、映画を観に来ている人に映画を盗むなと説教するのと同じといえば同じ構造だ)。

エルネストのミロノフという人はいかにもエルネストで(それにしても、人は良いが無能な甥っ子という設定もクリスマス・キャロルと同じだ)、舞台に立っていると良いのだが、声は好きではない。もっと明るくパーンと響かせる声が良いのだがな。

カーテンコールで出てきた指揮者(ロヴァーリスという人)が、まるで銀行員のようなスーツ・ネクタイで妙におもしろかった。なるほど、そういう時代の作品だ。

舞台美術は4個くらいの中心となるオブジェを壁に見立てて、(これも人力なのかな?)自由自在に動かして場を転換させるのだが、実にスピーディーで、オペラブッファのテンポってこうじゃなきゃな、と感心する。衣装含めて抜群だ。

これだけ力が入った舞台なだけに、観た人が少ないのが、本当に残念だ。もったいないなぁ。


2019-10-27

_ アンクル・トムを観る

子供が博品館劇場でアンクル・トムという小じんまりとしたミュージカルを観て来て、おもしろいし多分席も余っているし千秋楽だから行こうというので行った。

役者4人で1時間半というから、ミュージカルとしてはやたらと短いし、時間も空いているから行くことにした。

博品館の結構辛いビリアニの店で(朝食が遅かったので)軽くカレー3品とナンを頼んで食ってたら、よほどビリアニが辛いのか子供がナンをわけてくれというのでわけてやって代わりにビリアニを食うと確かに辛い。複雑な味で美味しいのだが、確かに辛いなぁとナンの甘さで和らげながら食った。というかヨーグルトをかけて食べればそんなに問題ないじゃん。

とかやってから、8階の博品館劇場へ。この劇場は初めてだが、横20人×20列あるかないかだから300人劇場の一種だな。

さすがに銀座だからか車の通行音が聞こえるなぁと思っているとそれが効果音で暗転して舞台が始まる。

粗筋は子供から聞かされていたが、真実は常に1つの原則から言えば、何が起きたかは舞台の上で演じられる台詞と歌からだけではわからない。

ラジオでサッカーのチャンピオンシップとそれに伴って連続殺人事件が語られることで4年の歳月が前後する。

ある作家、間違いなく国内最高のミステリー作家が失踪したため、ブランクが生じていることを嘆く編集長が、代わりになる新人を探すために賞の応募作品を募ることを説明する。

物語が始まる。

始まりは、借金取りに追われるケヴィンが締め切り間際の小説賞の応募作品を仕上げられず自殺でもするかとアパートの屋上に立つところから始まる。アプサン片手に初老の紳士トムが背後から止める。二人はトムの部屋で会話し、トムも応募作品を書いていることをケヴィンは知る。読むと引き付けられる。

路上ではレイモンド・チャンドラーというふざけた名前の花屋が花を売っている。彼はケヴィンの友人で、最後まで書きあげることができれば彼は才能ある作家なのだと、意味深なことを家主のおばさんに話す。

ケヴィンが書きあげられずに才能の無さを悲観していると、レイモンドからトムが倒れて救急車で搬送されたことが告げられる。家主によれば長くはもたないそうだ。

ケヴィンは葛藤したすえ、トムの作品を自作として賞へ応募する。当然のように作品は大賞を射止め、彼は一躍国内最高の作家の栄冠を得る。

4年がたつ。

専属作家の地位はあと3日で、それまでに次の作品を書きあげない限り契約は終わりだと編集長がケヴィンの家を訪ね通告する。

ケヴィンは書くことができない。

ふと気づくとトムの残したペンのイニシャルが失踪した作家のものと同じことに気付く。

そこにトムが現れる。家主の勘違いで単なる胃潰瘍だったのだ。

トムはケヴィンに作品を世に出してくれたことの礼を言い、3日間泊めてくれと頼む。

ケヴィンが気づくとトムは原稿を書いている。もうすぐ仕上がるという。君の名で発表しても良い。ただし条件がある。

ケヴィンが原稿を読むと、作品の主人公はまぎれもなくケヴィン自身だ。彼は友人の花屋が連続殺人事件の犯人と知り葛藤し、4本目のナイフで殺人を犯すところを犯人自身を殺すことで止める。殺人を犯したもののケヴィンは英雄視される。

トムが出した条件は、作品の通りに行動し、レイモンドを殺すことだ。それによって、現実を元にしたノンフィクションノベルとは次元が異なる、フィクションを元した現実というノベルが実現する。これこそが完全に新しい小説なのだ。それを君の次の作品とすればケヴィンという名は永遠となる。

ケヴィンは人気作家という地位を守るためにトムに従うという。

帰還したケヴィンは、この作品の欠陥は、ケヴィンという人物を正しく描写していないことだとトムに告げる。ケヴィンの母親は酔っぱらって夫(つまりケヴィンの父)を殺したのだ。おれはその母親の子供であり、人を殺すことに躊躇はないのだ。そしてトムを殺す。

4年前に戻る。

連続殺人のニュースが流れる。レイモンドの2本目のナイフは鞘しかない。

屋上でケヴィンは原稿が完成した気分の良さに風に吹かれる。背後から初老の男が近づく。彼は失踪した作家だと名乗る。

レイモンドは被害者だった女性の家へ花を運びに行く。


子供の解釈は、トムの部屋でケヴィンが酒を勧められて飲んだために見た夢だというものだ。ただ、その場合、2回目の4年前ではトムはトムではなく、失踪した作家自身として名乗ることと辻褄が合わない(もちろん、真実は2回目の4年前で、その後作家の部屋へ行き、そこで見た夢では作家ではなくトムだという解釈はできる)。

レイモンドの2回目がすべてと考えることもできる。この連続殺人者は、誰かに止めてもらいたい。自分を止める存在としてケヴィンを想定し、どうすればケヴィンが自分を救ってくれるのかを考えたストーリーが最初の4年間だ。

きわめて素直に考えれば、2回目の4年前は最初の4年後のケヴィンがトムを殺した後に考える、こうであれば良いという4年前だ。レイモンドは気のいい友人の花屋ではなく、陰惨な連続殺人者だ。トムは最初から自分を使ってレイモンドを殺すためのシナリオを持って近づく。しかし自分は既に自分の作品を書きあげ、それで応募するのだ。だからレイモンドは殺人を続け、自分とは友人のままで済む。レイモンドを殺したければトムが自分でやれば良い。

もっとあり得るのは、ケヴィンが飛び降りて死ぬ前に見たあったかも知れない未来だ。

なかなかおもしろかった。ただ、歌の印象はあまり無い。物語が語られる過ぎているのかも知れない。良い歌があったような気はするのだが。

演出も演技も落ち着いたもので、それはすごく良かった。これでやたらと激高して喚くような芝居だったらがっかりだが、そういうものではなかった。


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