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日々の破片

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2017-11-18

_ 素のWSL(Ubuntu)でrails

bundle installでばんばんエラーになる。

それはそうか。

以下が必要(apt-get install sqlite、apt-get install rubyと、apt-get install ruby-bundlerは当然してあるものとする)。

apt-get install make

apt-get install gcc

apt-get install ruby-dev

apt-get install libz-dev

apt-get install libpq-dev (なんかすごくたくさんインストールするが、これなんだ? と思ったらPostgreSQLの開発パッケージか)

nokogiriの作成にえらく時間がかかって閉口しているので待っている間にこのメモ書いた。

追加:nodejsも入れておく必要がありそう(you may need to add a javascript runtime to your ...とか出てきた)

さらに追加:たまたま試そうとしたRailsアプリケーションがPostgreSQLを使っていたので、libpqが必要だったわけだが、当然PostgreSQLが入っていないのでこれも必要。

apt-get install postgresql

で、

/etc/init.d/postgresql start

したら、rollが無いと言われる。

しょうがないので、

sudo su - postgres (su 2段重ねするのはpostgresのパスワードがわからないからだが)して、createuser --createdb oreore (最初--createdbを忘れてrake db:createで怒られたので、dropuser oreoreからやり直した)

今度はencodingで怒る。もう、既定でutf-8にしといてくれよ。

しょうがないのでpsqlで入って、検索して見つけたPostgreSQLテンプレートのUTF8化をスクリプトで行うを参考にして、2度とやる気はないのでスクリプトコピペではなくSQLコピペでtemplate1をutf-8化して、後は万事快調。

万事快調 [HDマスター] [DVD]


2017-11-05

_ 松濤のアニマルハウスへ

家族で松濤美術館へ出向く(その前に汐留で飯を食った。花山椒という店。名前から四川料理だと勝手に思っていたら懐石だった。汐留の東側が良く見える席で、カレッタの階段とか、鳥の巣のような屋上広告の骨だけとか、楽しいが、すべてをぶち壊す生涯学習の字。フォントに凝れば悪くはないのだが。京菜の味覚に驚いたり、小豆の甘さがおいしかったり、炊き物がおいしかったが(京菜がこれだったはず)なんだっけな。これは精進料理だった。お造りは鯛(これは良い。おいしい鯛は実においしい。これは醤油)と鰆(こちらはポン酢かな)。妻がポン酢とパンチは語源はいっしょでインドのポンなんとかというレモンにハチミツを入れた飲み物のことだというから、さてはイギリス経由で明治に伝わったのかと思ったら、江戸時代に流行ったという。東インド会社はイギリスだけではなくオランダにもあったな、と思い出して、一方のパンチのほうはイギリス-アメリカから伝来したのかなぁとか考える。イギリスもオランダもどちらも反カソリックだな、というところから先日読んだサピエンス全史まで思いが飛んだり、いろいろ飯食ってもおもしろい)。

パーキングは松濤だけに中途半端に高いが(12分200円とか、だいたい1時間で1000円なので駅から遠い住宅街としては高い)、まあいいやと適当なところに入れたら隣が立憲民主の宣伝カーで、ちゃんとコインパーキングに停めるんだなと思ったりした。

で、で区民用料金を払って中に入るといきなりでっかな熊がいて、売店の前にはでっかなトラ(とか書いているが間違いかも。これだけ写真撮影OK)、窓の向こうには小さなクマがこちらを見ていて、階段を降りようとするとクマ(ウサギかも)とか、三沢厚彦ならではの、でっかくてぱっと見かわいいが、どうも目に悪意があるような気がしないでもない動物がいっぱい。他に3~4人の仲間たちの作品がある。

うろ覚えだが、彫刻家の本棚みたいな名前の作品が印象的。男と女、何やら色々置いてあり、下にはネズミ(じゃなくて麝香ネコかも)。

それにしても、印象は強いのに、ずいぶん、細部は忘れてしまうものだ(いや、細部の印象は残っているのに、全体を忘れているのかも)。

2階は作っている最中か作ったあとに壊れたかした様相のオカピとか、くつろげる居間ということになっている。それにしても、クエイ兄弟のときも感じたが、松濤美術館の2階は実に良い空間だなぁ。

エレベータ前の椅子に座っていると、3歳児くらいの子供を連れた夫婦ものが来た。ひげの父親が子供に、居間へ続く入り口の脇のでっかなパンダを指さして、ほらパンダさん、というと、子供、しげしげとパンダを眺めていきなり、ドーンと言いながらジャンプして足踏み。四股みたいだな、パンダと向き合ったら相撲を連想したのかなと思いながら見ていると、そのまま実に楽しそうに居間のほうへ進んでいった。美術館って、こうでなきゃなぁとなんだか気分が良い。

部分部分に実演コーナーがあって、特定時間には芸術家本人たちが座って観客の目の前で製作するらしいが、時間の折り合いが良くなかったらしく、常に空白の座布団だったが、それはそれで悪い光景ではなく、結局、えらく楽しめた。


2017-11-04

_ パリのドンカルロ

子供がガランチャのエボリンは最高だから一緒に観ようというので、テレビにPCをつないで、パリのドンカルロを観た。カウフマンがドンカルロで、無駄なイケメンなわけだが、なんか最近はえらくカウフマンの歌に説得力を感じてしまっていて、顔に似合わない小汚いテノール(おれの理想のテノールは、軽さであれはステファーノだし、力強さであればデルモナコだし、器用さと声質ならホセカレーラスなのだ)と嫌っていたのがウソのようだ(パルジファルが素晴らしかったからだと思う)。

ロドリーゴというかポーザ候がテジエで、これが素晴らしい。素晴らしいのだが、服と体型と髪型と顔の輪郭が(時期的にやたらと露出が多かった)枝野にしか見えなくて、フランドルの自由と日本の自由がだぶついたりして妙な感じ。

意外に素晴らしいのがヨンチェヴァで、まっすぐに通る硬質なソプラノで、最後まで絶叫にもふるふるにもならなくて、こんな良い(というか好みの)歌手だったのかと驚く。

というか、全部素晴らしい(皇帝だけはいまひとつ印象が薄いアブドラザコフ。とはいっても、宗教裁判長のブロセルスキとのバス2重唱とかすごいわけだが)。フィリップジョルダンの指揮は良くわからなかった(歌手たちがすごすぎてあまり交響的な聴き方ができないからだ)。

ガランチャがやたらとタバコをふかしまくるのが、フランスというかヨーロッパの大人の文化っぽい。

演出は妙な時代空間にしている。侍女たちが全員フェンシングの恰好をしていて、白い中にガランチャだけが真っ黒とか、なんなんだろう?

・最初子供がガランチャがTwitterに張ったリンクを見始める。

・PCで検索したり、arte.tvのトップからリンクをたどると、お前の国では見せないが出てくる。

・しょうがないから、最初HTCのスマホをクロームキャストしてTwitterのリンクからTwitterの内蔵ブラウザーで見ていた。

・PCからTwitterでたどればいいじゃんと気づく。

・ガランチャのリンクが変えられていて見られないリンクとなっている(と最初思った)。

・待てよ、と考える。別にIPフィルタリングとかしているわけでも、ブラウザーのlangを見ているわけでもな(くはな)いことに気づく。Twitterの内蔵ブラウザーのバグというかいい加減なリクエストヘッダがこの場合はうまく機能していただけじゃん

・というわけで、今ではPCで普通に観ているというか聴いている。

Don Carlos à l'Opéra de Paris


2017-11-03

_ ギークはパラノかそれともスキゾか

唐突に自分はスキゾキッズの成れの果てであるというテーゼが壁のように目の前にそびえ立っていることに気づいた。

でも待て、おれはコンピュータとプログラミングが大好きで(ハッカーと名乗るのはおこまがしいのでギークとしておく)、そればっかりでも全然平気な人間で、でもそれってパラノじゃないかな?

いや、そこがクラインの壺というタコ壺たるゆえんのものではなかろうか。

だって、1年前のプログラミングと3年前のプログラミングと3.2年前のプログラミングと5年前のプログラミングって、全然違う。同じことばっかりやっているように見えて、その実、常に四方八方に飛び回っているのだ。ていうか、それがギークじゃん。

なんてことを、スキゾキッズで検索したら出てきたスキゾ・キッズ(浅田彰)を読んで、そうそうそうだよな、と首肯しながら考えるのであった。

むろん、それは最終的な到達点といったものではない。腰を落ち着けたが最後、そこは新たな《内部》となってしまうだろう。常に外へ出続けるというプロセス。それこそが重要なのである。憑かれたように一方向に邁進し続ける近代の運動過程がパラノイアックな競争であるのに対し、そのようなプロセスはスキゾフレニックな逃走であると言うことができるだろう。このスキゾ・プロセスの中ではじめて、差異は運動エネルギーの源泉として利用されることをやめ、差異として肯定され享受されることになる。そして、言うまでもなく、差異を差異として肯定し享受することこそが、真の意味における遊戯にほかならないのだ。第二の教室にいる子供たちが目指すべきは、決して第一の教室ではなく、スキゾ・キッズのプレイグラウンドとしての、動く砂の王国なのである。

(引用の引用だ)

なぜ、ギークなおれたちが多様性を重んじるかといえば、それはスキゾキッズの成れの果てだからだ。


2017-10-29

_ サピエンス全史読了

かかりつけの医者の本棚を見ると、医学書とか論文集とかに紛れて、なかなか社会的な問題にも興味があるのか、そのタイプの本も並んでいる。

ならば、もう読まないし、おそらく興味あるだろうからと、先日手土産にジョックの排除型社会を持って行ってプレゼントした。

排除型社会―後期近代における犯罪・雇用・差異(ジョック ヤング/Jock Young/青木 秀男/伊藤 泰郎/岸 政彦/村澤 真保呂)

「排除」という強力なキーワードを無法図に言い放つ政治家が出現する前のことだ。もちろん、排除型社会というのはサッチャーが作り出したイギリスのことで、おかげでケンローチは創作意欲が旺盛になったのかがんがん映画を作るし、ビリーエリオットのような作品は生まれるしで、他国の鑑賞者にとってはネガティブな面ばかりではないが、それにしてもサッチャーみたいな首相が生まれる目が事前につぶれたのは悪いことではない。

すると、医者は「そういえば先日はサピエンスを読んだが、これもおもしろかったよ」とか言うので、では読んでみるかとKindleで何気なく合本というのを買って読んだ。通勤の往復で3週間か4週間かかかった。

読み始めると、ホモの中のサピエンスが、他のホモを殲滅(おそらく)しながら地上に君臨する現代までの歴史をかいつまんで(といっても数100万年単位だから分厚くなる道理だ)解説した本だった。

何度か転機があり、1つ目は想像力による超集団化能力の獲得で、それによって数人とか家族とかといった単位ではなく100、1000、数10万という単位で行動できるようになったことで、結果として農業という革命を起こし、帝国、資本主義、科学の三位一体を経て現在に至るということであった。

ダイアモンドの銃・病原菌・鉄や、ドーキンスの利己的な遺伝子まで目配せが効いている。帝国はネグリかな(これは読んでいないのでわからない)。

遺伝子の勝利という意味では、牛と鶏は人間のおかげで圧倒的な数で地上に満ちているが、果たしてそれで彼らは幸福なのか? という問いから、仏教の考え(幸福とは幸福であることではなく――幸福であれば幸福である状態に執着せざるを得ず、執着こそが不幸の根源であるからだ)を相当な量で解説したりしているが、さすがに21世紀なのでニューエイジのくそみたいな東洋かぶれからは30歩くらい離れたところで語っているのには好感が持てた。

それ以上におもしろい! と思ったのは、農業は狩猟よりも遥かに劣った食べ物を、遥かに劣悪な農作業という苦行によって営む最悪の選択だったわけだが(個人の幸福という観点からは)、種としてのホモサピエンスにとっては最高の選択だったというような観点からの説明だった。この苦行を集団でおこなうためには、想像力による意思統一が必要であり、それが神話や愛国心や道徳だというのはおもしろい。

そういった想像力の産物で最も重要なものが貨幣だという指摘は、現時点ではビットコインのような国家(権威、つまりまさにサピエンス共通の想像の産物)フリーな貨幣が登場してきたことで、さらにおもしろさを増している。

高度に発達しつつある資本主義において、なぜ工場労働者は苦行にあえいでいるのか? という疑問から解放の理論を作ったのはマルクスで、そこから下部構造が上部構造を規定するという唯物史観が誕生するわけで、この考えは相当な正当性があるとは考えられるわけだが、1960年代になって、さらに高度に発展したときに(それこそトリクルダウンがあったわけだが、まあ50年たつとピケティによってそれはたぶらかされているだけだ、と数的に示されてしまうことになるのだが)、なぜ革命を目指すのか? というのが新左翼の出発点となったとおれは考える(50年たった今の目で見れば、そもそもまず革命ありきの時点で価値観が転倒しているのだが、そこは不問とした場合)。

そこで問題となったのは、疎外の克服だった。マルクスが言う疎外というのは生産物を作り出すインフラが資本家に所有されていることによって、生産者(つまり労働者)自身が自身の生産物から疎外されているという経済現象のはずだったのだが、そこに哲学的な意味がついたのだ。

そこでいろいろな人たちが疎外について考えた時に、下部構造/上部構造という単純な図式はおかしくて、そもそも国家が成立しているのは共同幻想ではないか、と喝破したのが吉本隆明だった。

改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)(吉本 隆明)

これはどちらかというと、アナーキズムの論理を支援するものだと考えられるのだが、あまりそういうふうには広まらず、もっぱら自立した個人の確立というなんか青春ドラマ的な展開を見せることになって、それはそれで後から読んだおれにはおもしろかった。

共犯幻想 上―ワイド版(斎藤 次郎/真崎 守)

(というわけで共同幻想論の文化的な結実として共犯幻想があるのではないかとか)

で、本書ではそういった考察の果てに仏教が出てくるところが、なんとなくだが、バロン吉本の作品遍歴のようでもあり、ちょうど半年くらい前にテレビで見ておもしろいなぁと思った唯摩教とシンクロしたりして、実におもしろい読書体験を持てた。

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福(ユヴァル・ノア・ハラリ/柴田裕之)

さらに、先日、ちょっとFBでやり取りしたのだが、今後は生身のオリンピックよりも、パラリンピックのほうがおもしろくなるだろうという予見とかともからんでくる。

オリンピックはドーピングが禁止されているわけだがそんなストイックなものよりも、治療のためにドーピングしまくってジャックハンマーみたいになった障害者や、欠落した器官を補うためにサイボーグ化した超人の祭典のほうが遥かに人類の可能性(単に肉体と精神の力に頼るオリンピックと違って、パラリンピックは医学、生物学、機械工学、分子工学、薬学(化学)などなどのあらゆる科学が投入される分野となるわけだから)になる可能性が高いからだ。(すでに義足ですごい選手が出現したのは記憶に新しい)

行けるところまで行ったら地球がハンマーだか拳だかで粉々になっても別に構わないが、その時を見届けてはみたいものだ。

#サピエンスで、実にああそうか、と目から鱗だったのは、科学は知らないということを知るところが出発点で、それは神とは相いれない。なぜなら神は全知だから人間は神の教えに従えば良いわけですへてはバイブルにあり、そこに無いことを考えるのは不信心で火炙りという宗教と相いれるわけがない、という指摘だった。全知ではないからこそ(しかし想像力を持つゆえに)人間は実におもしろい。


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