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日々の破片

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2019-08-17

_ 世田谷文学館に「かわいい」を発見に行く

妻と世田谷文学館の原田治展「かわいい」の発見を観に行った。

一応駐車場があるようなので、地図を見ると駅に近いし、いざとなればタイムスとかもありそうなので車で行った。

すると、駐車場の場所はすぐわかったのだがどうも勝手が違う。先行する車がリフトに乗ったのだが、運転手が出てこない。

えらく時間がかかって係員に呼ばれてリフトの前に進めて妻が下車する。

しばらくすると、係員が妻に気づき、待っているのなら車に乗れと指示する。妻が怪訝そうな顔をしながら乗ってきたので、運転手が出てこなかったから、回転式パーキングではなく、駐車場へ車を運ぶエレベータなのではないか? と言う。係員は妻だけ先に入館すると考えて最初に降りた時点ではスルーしたのだろう。

しばらくすると係員がトランシーバーで何か話した後、こちらに来て、これから出庫する車がいるから表に出て待て、と告げた。で待った。すごく待った。どえらく待って、車が出てきて、やっと番になった。

すごく狭そうだがドアミラーを畳む必要が無い程度には幅があるエレベータの中に入ると、係員が最初に確定ボタンを押してからB1を押せと言う。

ボタンを見るとえらく遠い位置にあって、手が届かない。そのくらいしてくれりゃいいのにと思ったが、どう考えても係員が入る隙間がない(届かないのはボタンのある壁から距離があるのではなく、ボタンがドアミラーより前にあるからだ)。これはしょうがないと、扉を細めにあけてどうにかボタンを押した後になって、妻が、こっちのほうが押しやすそうだから押そうか? と言いだしたがもう遅いよ。確かに左側のボタンのほうが押しやすい位置にある。

で、扉がしまると矢庭に車が90度回転してびびる。なんかむちゃくちゃおもしろいのだが、動作が途轍もなく緩慢だ。

回転板が固定されたらしく下り始めるが、これがまた遅い。かっての青山紀ノ国屋のエレベータよりも遅い。

なるほど、こりゃ時間がかかるはずだ。普通の人の脚なら、駅から2往復はできる。こんなに暑くなければ京王線で来るほうが正しいのだろう。

と、入館前からいろいろな文学的体験がありまくって期待しまくりとなった。

原田治は妻がオサムグッズ好きなので意識するようになったがすでに30年以上前の話だ。妻が持ち込んだ缶だのタオルだのは、最初はあまりに好みとは異なるので感心しなかったのだが、そのうちかわいいものはかわいいと思えるようになってむしろ好きになった。

わざわざつきあってくれた? とか聞かれたときに、いや、おれも好きだから楽しみだ、と虚心に答えたのは本当のことだった。

2階の特設会場に行くと、写真撮影はOK、ただしフラッシュはたかないこととか書いてある。商業デザイナーの作品の展示とはこういうことですか! と、不意打ちを食った気分になる。

まさにポップだ。

最初に生涯が書かれている。1946年ということは敗戦の翌年生まれで、子供ころから画家に師事して、青山学院の中、高と進み、画家の先生に画家になれるか? と聞くと、実家が太くて遊んで暮らせるなら画家になれると教わって、商業デザインに進むことにしたというようなことが書いてあっておもしろい。

おもしろいが、小学校の絵日記(妻曰く、両親が保存しているところが既に裕福な家庭)が展示されていて、家庭教師が家に教えに来てくれて勉強したあと、画家の先生の家に行ったというようなことが書いてあって、妻が、やっぱり裕福な家だと言うのだが、でも画家にはなれない程度には裕福ではないじゃんと言ってみる。

同じく小学生のころの写生を見ると建物が透視図法できちんと書いてあって基礎がちゃんとあってのかわいいデフォルメなのかなとか思うというか、OSAMU GOODSの絵はすごくぺったりしているのに立体感があるのはこの辺にあるのかなとか考える。

紐育の修業時代の作品からアメリカ文化の何を学んだのかが見えておもしろい。

大瀧詠一なんかと時代精神を共有しているのだなと思い、ああ、まさに1970年代後半~80年代の文化の先っぽの一人だったのだな、と感慨がある。ハリウッドランチマーケットやオキドキなんかに通じるものがあるわけだ。

で、an・an時代に突入。少しも知らなかったがペーター佐藤とコンビを組んでいたのか。

街ガイドのイラストがすでにオサムっぽい。

犬と小僧

えらく感心したのは、こういうイラストが細かく作られていて、それをおそらく編集者がペーター佐藤のものや地図と組みあわせて誌面を構成していることで(誌面がまず展示されている)、エディトリアルデザインが抜群なことだ。

これはとがっているはずだと感心する。おれの中では、マガジンハウスのan・anに対して集英社のnon-no、マガジンハウスのPopyeに対して講談社のホットドッグプレス、マガジンハウスのブルータスに対して小学館のDIMEという、雑誌カテゴリでのアンテナ:マーケットという関係があったのだが、エディトリアルデザインの力の入り方がまさにその図式そのものだ。

それはそれとしてan・anの切り抜き類はおもしろい。キラー通りの今はサラダバー、その前は靴屋の前は帝人ショップの場所がVANだったころのストリートマップがあって、今や廃屋のパスタンがあり、今も生き残った福蘭がありの間にBIGIが宮廷マンションのあたりにあって、へーそうだったのかとかいろいろ知っているもの、知らないもの、覚えているもの、まったく気づきもしなかったものがたくさんあって記憶が刺激されまくる。

で、an・anを出発点としてOSAMU GOODSが1976年に始まるらしい。

が、それ以上に驚いたのは気付かないだけで山ほど原田治の作品を見ていたことだ。

半蔵門線に乗れば(営団ではなく田園都市線、東急の車両だと思う)クマが危ないよ! と注意しているのだが、これが原田治。

危ないよのクマ

崎陽軒のシウマイの醤油瓢箪が一時絵柄が変わったなと思っていたら、これが原田治。

ひょうちゃん

というか、カルビーポテトチップスのジャガイモが原田治。

ポッキー(プレッツエルかも)の箱の絵(この箱は見た覚えがない)で、パッケージデザイナーか代理店のクリエイティブかとやり取りした下書きが何点か展示してあって、「お前のクソデザイン案だと襟がうるさいからTシャツにしろ」「お前のクソデザイン案だとカップじゃなくて湯飲みにしか見えないから、取っ手をつけてやったぞ」「指だけ出したら気持ち悪いだろ、腕を示した方が良いぞボケ」とかをきれいなビジネス用語で書いていて、おお、大人の商業世界の人間だと思う。プログラマもクソコードとか言ってはいけないとかちょっと考える。

パッケージデザイナーだか代理店のクリエイターにもこだわりがあるようで、襟はなくっているし取っ手もついたが、カップは宙に浮いているのが最終製品になっていて、これもおもしろかった。

さらに見て行くと構造と力の装丁が原田治。そうだったの?(原田治を家に持ち込んだのは妻だと思っていたら、おれも持っていたわけだ)

で、当時からポップな北園克衛(ちょっぴりモンドリアン風味)と思っていたわけだが、原田治自身が北園克衛の強い影響下にあったことを知り、かわいいと北園克衛の間についていろいろ考える。

晩年の原田治は東京湾の小島にアトリエを作り、発表しない抽象画を描きまくって過ごしたとある。唯一公開した作品の黒い船(というような名前)の連作があって、なぜ発表せずに自分のために描き続けたのかなんとなくわからなくもないような気になった。公表されている作品自体は素晴らしく良いのだが、あまりにデザイン的に洗練された北園克衛風味なのだ。それなりに孤独でありぼうとした心象があり印象はあるが、本人としてはあまり公表するような性格の作品ではなかったのだろうなぁ。

北園克衛詩集 (現代詩文庫 第 2期23)(北園 克衛)

(で、おれは北園克衛が日本の詩人では萩原恭次郎と同じくらいに大好きで、なんか不思議な気分となる)

最後、一室を使ってOSAMU GOODSの一大パレードとなる。

マザーグースだったのか! と背景を知りすごく納得しながら、コンセプトを見ると、かわいいとは明るく楽しく、でもそこに一抹の寂寥が加わることというような定義があって、これまた納得する。かわいいは永遠ではないし、そればかりでもない。

70年代後半からバブルが崩壊するまでの世界は見事なまでに崩壊するまで突っ走っていた、その崩壊をほんの少し予見させるものでなければならなかったのだ。

実におもしろかった。良い時代をお互い過ごせたよな、と妻を眺める。

1階の常設展(?)のほうも眺める。

ムットーニという人のからくり本の上映というかからくりが動作するのを待つために、仁木悦子の展示を見る。

おれ、この人の本を読んだことないなと思いながら展示されている説明や他の作家との書簡などを眺め、こんなおもしろいのかと目からうろこがばりばり落ちる。作家の書簡のおもしろさを初めて理解した。

猫は知っていた (講談社文庫)(仁木悦子)

特に寺山修司との大量のやり取りがおもしろい。

きっかけは、雑誌で仁木が半身不随で動けないことを知った、詩集を自費出版したばかりのネフローゼで身動き取れずに療養中の寺山が手紙と詩集を仁木に送り付けたところから始まる。

原稿用紙に書いた手紙だ。

すごく一方的でなんじゃこりゃと思うのだが、お互い身動き取れない同士で手紙による交流が長く続く。

仁木側の展示だから、展示されているのは寺山のものだが、最初は原稿用紙だったのが、カリグラフィーでビジュアルに凝った自由形式に変わっていったりが実におもしろい。良くわからない虚勢のようなものがあったり、実におもしろい。

筒井康隆の年賀状がこれまたおもしろい。

寅年の年賀状はトラ尽くしでベントラ・ベントラで締めくくってあるし、多分卯年の年賀状は悪いバニーガールが出会う人たちからひどい目にあいまくる短文だし、なるほど、この世界の人たちはこうやって生きているのかと思った。

それにしても仁木悦子は読んだことがないわけだが、出自は江戸川乱歩が、明るく楽しくモダンな推理小説こそこれからにふさわしいと50年代末に推しまくったからだと知って、ああそうかと思った。さすが眼高手低の人(by 山田風太郎)だ。

猟奇的な推理小説や本格は時代を超えやすいのだ。だから高木彬光や横溝正史は読んだことがある。

が、明るく楽しくモダンな推理小説は、おれの時代では仁木悦子ではなく、小峰元だし赤川次郎だったわけだ。だからそれほど推理小説に興味を持たないおれは仁木悦子まで遡る必要がなく、それで読んでいないのだった。

が、一部展示されている作品(既に忘れたが多分、林の家という作品のような)のプロットのノートや、どう文章が構成されているかの分析を読むと、実におもしろそうではないか。というかおもしろいのは間違いがないわけだから(江戸川乱歩の眼力は疑いようがない)、そのうち読むだろう。

(P[に]2-3)林の中の家 仁木兄妹の事件簿 (ポプラ文庫ピュアフル)(仁木悦子)

(が、林の家はKindle版にはなっていない)

で、ムットーニだが、カヴァレリア・ルスティカーナとブラッドベリーの組み合わせは良いとして(これがトリの作品)、特に最初のものは読まれる文章の退屈さと動作の緩慢さがあって気持ちの良いひと時になってしまったが、待て、おれが裕福だったら寝室に30個くらい展示して毎日日替わりで楽しむのにふさわしい作品ではないかと思った。ゴルトベルクとチェンバロを用意するよりも良い。

_ 文学館と美術館

世田谷の公共施設とだけ覚えていたので間違って美術館へ行くところだったのだが(事前に駐車場情報を調べて気づいた)、なぜ美術館ではなく文学館なんだろう? と不思議に思った(仁木悦子とか見られたので文学館で全然良かったのだが、疑問は疑問)。


2019-08-11

_ ミュージカルのロミオとジュリエット

子供がロミオとジュリエットのDVD(大野/木下組)買ったから観ようというので一緒に観た。

ジェラール・プレスギュルヴィックという人の作品。

どこまでが日本版の演出でどこまでがミュージカル作者の設定かわからんけど、いろいろおもしろかった。

いきなりハイ&ロウのルードボーイみたいな連中が暴れ始めるので現代演出かな? とか思いながら観ていると、こともあろうにモンタギュー側のマーキューシオ(シェークスピア的には大公の親戚ということで割と余裕で悪事に手を染める軽いやつ)が、狂犬みたいなギラギラ野郎で、むしろ狂犬みたいなギラギラ野郎のはずのキュピレットのティボルトがおっさんくさいドスの利いたヤクザ者で相当とまどう。とはいえ、ベンヴェーリオはホーレショやケント伯と同じくシェークスピア劇特有のちょっと離れたところで主人公に寄り添って出来事を観察し説明する役回りでそこは変わらない。

ロミオが登場すると、ふにゃふにゃ野郎みたいに言われるのだが、世界の王というすごい傑作を歌ってその場のみんなが納得する。

実際、ロミオの想定通り、ロミオとジュリエットの結婚により両家の争いが収まる可能性すらあったわけだが(ロミオは別に打算的にジュリエットと結婚するわけではないのだが)、そういう器量の持ち主ということが見事に示される。うまいミュージカルだ。

ジュリエットが16歳と言うのでここも相当不思議に思う。文句なしの14歳なのに。あとで、ロミオの旅立ちの日に裸で一緒にベッドに寝ているシーンがあったので、なんかのコードをクリアするためにハイティーン設定にしたのかなぁとか思った。

シェークスピアの劇ではモンタギューとキュピレットの政治バランスが人事的にむちゃくちゃ悪くて(モンタギューは、ロミオ、マーキューシオ、ベンヴォ―リオと3頭体制なのに対してキュピレットはティボルト以外は雑魚とジュリエットしかいない)、それはティボルトがマーキューシオを殺して、ロミオがティボルトを殺して、ベンヴォーリオは傍観者役だから死ねない以上はしょうがないバランスなのだが、ここではバランスを取ろうしたのかティボルトとジュリエットの父親がやたら重い役を背負わせられている。

どうもほのめかしなのだが、ジュリエットの本当の父親はティボルトで、しかしティボルトはそれを知らなくて(ジュリエットに恋している)、父親はジュリエットが実の子ではないことには気づいていて(殺そうかと思ったが、育てた子供の可愛さ、どうしてそんなことができようか、それにしても妻は私を愛していないと、まるでドンカルロスのフィリポ2世のような歌を切々と歌う)しかもどうやらティボルトの子供らしいと気づいていて、一方母親はジュリエットに本当のことを教えたくてうずうずしているのだが辛うじて自制しているという複雑さ。

僧ジョンは出てこず、代わりに神父がメールを打つが、ロミオはスマホをマントヴァの不良グループに盗まれてしまって読めないという設定。

パリスは大公との関係はなく、単なるお金持ちの頭悪い人という、なんかリーズの結婚みたいな設定で、墓所にも来ない。

来ないおかげでロミオはさっさと毒を呷って死ぬ。

そしてジュリエットが目を覚ますと、ロミオロミオというとても美しい歌を歌う(なんかよくわからない貼り付けたハンガリー版の1:30あたりの箇所だが、ハンガリー語でロミオと言っているのかどうかさっぱりわからない。それにしてもこの曲のうまさは、ちょっとミシェル・ルグラン風のいかにもフランス風ミュージカルで始まるのが0:55の転調で再度元に戻し1:22の転調後にロミーオロミーオで飛翔するところで、実にうまい。才能がある作曲家というのはすごいものだ)。バレエのロミオとジュリエットもそうだが、目覚めて希望に満ち溢れていればいるほどその後の衝撃がかわいそうになるわけだが、これも見事な音楽なだけに可哀想さが100万倍だ。

シェークスピアと同じく、ロミオの手の中の毒瓶を取るが毒は残っていない。ロミオの口から毒を吸おうとするが、それもできず、短剣で死ぬ。

死骸の上でデタント。

ROMEO ET JULIETTE(OST)

上のハンガリー版の歌は何でMADしたのかと思ったら、アニメでロミオ×ジュリエットというのがあったのか。ハンガリーで日本のアニメとフランスのミュージカルを魔合体させてるってのがちょっとおもしろい。

[シェイクスピア没後400周年記念]アニメ「ロミオ×ジュリエット」memorial DVD-BOX


2019-07-27

_ オン・ザ・タウン

子供におごってもらって東京文化会館でオン・ザ・タウン。

文化会館についたら、オペラの客層なので、ミュージカルと聞いていただけにえらく戸惑う。芸大ホールの間違いか?

でもチケットを見ると間違いない。で、よくみるとバーンスタインの作品で佐渡裕が手兵の兵庫芸術文化センター管弦楽団を振る舞台で、なるほど、作品はミュージカルだが舞台としてはオペラのコンテキストなのかと納得する。それにしても本当に客層が分断されているな。

で、子供からは(バーンスタインどころか)3人の水兵が町に1日限りの休暇を過ごす話らしいとしか聞かされていず、3人の水兵といえばニューヨークニューヨークだよなぁと聞くと、でもニューヨークじゃないと思うよ、だってタウンだしと言われて全然違う作品だと思っていたのだった。そのときはIt's a wonderful town! と続くのをころりと忘れていたというのもあるけど。そもそもあのミュージカル映画の音楽がバーンスタインだということも知らなかった。(オン・ザ・タウンを観ている間はwonderful townじゃなくてヘル言っているみたいだと思って今調べたらit's a helluva town! (反語表現)となっていて映画ではコードにしたがって変えたのだった)

で、これが発見に満ち溢れたすごくおもしろい舞台だった。まず指揮と演奏が抜群で、キャンディードなんかではまったく気が付かなかったが、どえらくガーシュウィンの影響があるジャージーな音楽のオーケストレーションで、ということはリズムやソロにアドリブ臭さが混じるのだがそれが実に自然で今まさに演奏しているとは信じがたい。

プログラム(えらく立派なものがチケット代に含まれてついてくる)を読むと、映画化にあたってはプロデューサーがバーンスタインの音楽はあまりに前衛的だから映画の観客には通用しないだろうとほとんど差し替えまくったとかある。

が、聞く限り、これがだめなら巴里の亜米利加人とかあり得ないだろうと不思議になる。逆に言うと、そのくらいガーシュウィンっぽいのだが、踊る大紐育が1949年、同じドーネン・ケリーでも巴里の亜米利加人は1951年だからその間に観客も進化したのか(あり得ないな)、歌手のシナトラがいなくなったので歌を使う必要がなくなったからかな。

ただ、今、映画の年代が1949年ということでちょっと理解した。

原作は1944年だし、どうみても一番重要なテーマはおそらく主人公のゲイビー(映画ではジーン・ケリー)のゲイビーが町にやって来たと、寂しい街(誰も僕を気にしない)と僕が僕で良かった(と幸福な気持ちで恋人を待つが期待は裏切られる)だからだ。もちろん寂しくなくなってあわただしく終わるわけだが。

物語はニューヨークに停泊した戦艦から24時間の休暇を与えられた水兵が町に飛び出す。

そのうち3人組、ゲイビー、チップ、オジーの話となる。地下鉄に乗って移動中だ。チップは父親からもらったガイドブックにしたがって名所を見ようとする(実はすべてが古い……劇場は廃業していたり最高峰は40 ウォール・ストリートかクライスラーだろうが、クライスラーとは言っていなかったように思う……とか)。オジーはとにかくナンパするか夜の町で女性を買うことしか頭にない。ゲイビーはもやもやしている。そこに、地下鉄のプロモーションのために毎月乗客から若い女性をポスター化するという今ではないよなぁ、良い時代になったよなぁと思わせるようなミス改札口の最新のポスター(アイビー・スミス)を車掌が貼りに来る。一目見てアイビーをゲイビーは気に入ってしまう。なんと刹那的、でもそれがテーマだとはね。

熱い男のオジーは、いやがるチップを説き伏せて、ゲイビーを彼女とデートさせることを目標とする。

と決まると、ガイドブック野郎のチップは計画力があるので、3人で調査するための場所の分担と集合時刻を決めてさっそく3手に分かれて行動が始まる。

最初に地下鉄局への問い合わせを担当したチップは、居眠りしていたためにタクシー会社をクビになったブリュンヒルデ・エスタハージ(ニレジハージみたいな名前だからハンガリーで、名前がドイツだなとか思ったので印象深い)と出会う。ブリュンヒルデはチップに一目惚れして嫌がる彼を家に連れて帰る。そこにはルームシェアしているルーシーという風邪ひきの女性がいる。本来は昼夜交代で部屋を使うはずが風邪ひいて仕事を休んでずっと家にいるのだ(というのが居眠りしてクビになるのはこれの伏線だったのか)。ここでブリュンヒルデはわたしは料理が得意という素敵な歌を歌のだが、待て、シチュエーションといい、曲想といい、詞といい、赤い波止場で中原早苗が歌う私は料理がとっても上手(日本映画の女性が踊るシーンの中でもっとも歌も踊りも女優も好きなので忘れようがない)の元ネタか、これ?

一方、美術館が趣味と書いてあったので美術館担当のオジーは間違えて自然科学博物館に行き、そこで人類学者のクレール・ド・リューヌ(なぜ月の光とこれまた印象に残る妙な名前)と恋に落ちる。クレアの家に行くと婚約者のピアースという世界でももっとも物分かりの良い男が待っている。

カーネギーホールでレッスンを受けているというような情報を頼りにカーネギーホールを探すゲイビーだが、Carnegie Hall を読めない(おれだけかと思ったらアメリカ人でも読めないのだな)ので何か違う(覚えてない)呼び方をするため誰からも相手にされずに、寂しい歌を歌う。そこはミュージカル、いつの間にか踊りの渦が巻き起こり、カーネギーホールのレッスン場でアイビーと出会い、デートの約束を取り付ける。万歳。アイビーとゲイビーで韻を踏んで、スミスは一番多いアメリカ人の名字ってことかな? というか、彼女だけ他の二人と名前が違い過ぎる。探すのが無理な名前という設定なのかも。

一方彼女はミス改札口に書いてあるプロフィールと異なり、コニーアイランドのベリーダンサーで、ブロードウェイに出ることを夢見てレッスンを受けている(のだと思うが、カーネギーホールってどういう仕組みかさっぱりわからんな。グリーンブックではドクターはカーネギーホールに住んでいたし、同様に音楽家が住居を与えられていて、中には個人レッスンを自宅で行う人もいるということなのか?)

で、2幕になると爆笑を誘う大仕掛けがみんなで遊びに行くナイトクラブ3交代で巻き起こるのだが、2つ目か3つ目で、ああ、この物語はそういう意味なのか、とはじめて理解した。もっと普通は早くわかるのかも知れないが、踊る大紐育の能天気な印象が強すぎてわからなかったが1944年ってノルマンディー上陸の年じゃないか。

多分、2個めのキャバレーでゲイビーの心を沈ませる歌を引っ込めるためにブリュンヒルデが、ここにいるのは水兵さんで今日が最後の休暇なんだ! というようなことをいうと店のものから客まで全員が拍手喝采して水兵さんのために! というような感じとなる。なぜそこまで歓待するんだ? と疑問になって、あ、ノルマンディーへ行くことになるからかと理解した。

とするとドイツハンガリーフランスの名前もそのあたりを掛けているのかな。

いずれのナイトクラブでも支払いは世界で一番物分かりの良い婚約者にクレールが押し付けるというお笑いをかませるのでついに婚約者は物分かりの悪い男になる宣言をして、ブリュンヒルデのルームメイト(彼女もなんとなく物分かりの良い女性を押し付けられている)と一緒に全員を捕まえに行くらしい。

結局、コニーアイランドでアイビーを見つけたものの、呼び込みのためにベリーダンスのダンサーを店外に連れだしていたオーナーと踊り子たちは風紀紊乱で警官に逮捕されそうになる。そこに無理矢理全員で割って入ってごちゃごちゃやって、もう帰船の時間でばいばい、また会えるよね、で入れ替わりに他の水兵がニューヨークニューヨークと歌いながら出てきておしまい。


2019-07-24

_ 日本の神話・伝説を読む―声から文字へ 読了

通勤中にちまちま読んでいた日本の神話・伝説を読む―声から文字へを読了。

昼飯食いに入った寿司屋のテーブルの下に置いてあって、ぱらぱら見たら、狂風記に出てきた市辺忍歯皇子とかも出てきてまあ読んでみるかとマーケットプレイスで購入したのだった。確かにあっというまに絶版になるのもわからぬでもない、天下の奇書だった。

「な……なんだってーーーー!」でおなじみのMMRによく出てくる無理くりな語呂合わせで謎を解いていくスタイルの元ネタは、この先生の学問なのか? と思わず考えてしまうスタイルである。

たとえば、

武埴安彦の妻がもつ『吾田媛』という名にも、物語的な背景がありそうである。

「仇をなす」というやや古い表現があるが、この「あだ」は中世までは「あた」という語形で用いられた。『万葉集』では、その「あた」に〈敵〉〈賊〉などの地を用いている。

(万葉集の引用)

「吾田媛」の「あた」は、この「あた」だと考えられる。彼女は、謀反を起こす前に、謀反の成功を願って(後略)

という調子で、出てくる名前、地名、事象、象徴的な物品、それぞれの言葉についての発音を中心にして意味を見出していく。

どう発話したかの傍証として万葉集からの引用もがんがんある。

のだが、そこには新たな発見があるわけではなく、そういうものだ、ということを延々と繰り返して物語を還元していくのであった。

記紀は、口承を文字化したものだからだ。

そこから、最初から文字で記述することを考えて作られた平安時代の説話との違いとして、いかに音韻と物語が表裏一体にあるのかが考察されるというよりも、その考察がほぼすべてだ。

なんだこれ?

でも、結構おもしろくて、結局全部読んでしまった。

それにしても、日本の人たちにはあきれるばかりだ。

以前見たNHKの歴史番組で、恋の歌しか日本には無いというのを知ったが、記紀も適当に引用すると、セックスの話しか書かれていないんじゃないか。子供用に訳するとそれなりに物語があるようだが、基本書かれているのは、天皇がどこそこにいってそこで見かけた美人にこなをかけて、思わずやってしまって子供ができた、というのばかりなのだった。引用される万葉集もすべてがすべて、あんたのことが好きだから夜になったら遊びに行くから待っててね、とかそんなのばかり。

日本人は、せっかく中国から借りてきた文字を使って何をしたかといえば、こんなことをしていたのだな。

そんなぐあいで、何かというと女性は陰部を細長いもの(矢だったり棒だったり)で突いて自殺する。なんだこれ? そもそもそんなことでは死なないだろうから、出産で死ぬことの表現なのか、それともまったく意味がないのか(それにしては、複数の物語で、陰部をついて自殺したり殺されたりするのが謎だ)、でも、この先生(学習院の教授らしい)はそこには興味はあまりなさそうだ(取り上げている記紀の話にはやたらと多いが、おそらくこの先生の興味の対象である名前(一番音と言い換えが頻出するからだろう)がしっかり書かれているのが、そのタイプの話だからに違い無さそうだ。

しまいには、

矢はたちまち美男に変身して、彼女と結婚しました。

そうして生まれた子は、富登多多良伊須須岐比売命と言い、別の名を比売多多良伊須気余理比売《これは、名の「ほと」ということばを避けて、あとになって改名したのです》と言います。

それで、その子を神の御子というのです。

で、その子はその後に天皇と結婚するわけだが、この名前の紹介がそのまま音韻として物語と等しく、つまり口承するにあたって、言葉から出る音で物語が補完され、記憶されて、それが複数の名前になる(そもそも、ほとはないだろといって改名するくらいなら、最初からそんな名前をつけるわけがなく、ということは、その名前は単に物語を説明するための音なのだ、という理屈となる)。

日本の神話・伝説を読む―声から文字へ (岩波新書)(佐佐木 隆)

でもまあ、おもしろかったのは事実だが、まともな文字を使った文章の出現には平安時代を待つ必要があったのであった。

_ 言葉と文字

言葉はその場限りで消えていくので、物語を繋ぎとめるために、音を使って(たとえば名前と筋を等しくすることで)いたのではないか、いやそうだ、だから記紀はそう読むのだ、というのが『日本の神話・伝説を読む―声から文字へ』だ。

それまで言葉だけだった口承のものがそうやって文字として定着させることができて、はじめて、論考が可能となる。フローとしての言葉ではない、ストックとしての文字となることで客観的に考証できるからだ。

日本だと、それが奈良時代ではまだできず、平安時代を待つ必要があった。そのくらい時間がかかるのだ。

でも、元に戻すのにはそれだけの時間はかからず、あっという間に、恋の話と、誰それのゴシップだけに戻せる(つまり、記紀と万葉集だ)。

ということをさんざん1960年代にテレビが猛威を振るい始めてから別の言い方で警鐘されてきた。

映画や音楽は繰り返し再生可能メディアなので、まだ文字に近い。

評論という場の有無がそれを示す。

一過性情報は言葉と同じだ。が、ストックされることで文字と同じとなる。

なるほど、オタクの人たちがDVDを買い、放送を録画し、なんども映画館に足を運ぶ道理だ。だから、彼らはそれについて、たとえば世界と彼女として、物語の枠外にある世界について語れるわけだ。文字かどうかはあまり重要ではない。繰り返し再生が可能かどうかだ。しかし、それは普通の人たちの楽しみ方ではない。普通の人たちはせっかくの映画を音楽をアニメを言葉のようにフローとして消費するだけだからだ。そこに残るのは万葉集と記紀の世界しかない。

おもしろい。


2019-07-21

_ 新国立劇場のトゥランドット

これはすごかった。

大野監督自らが振るので、遅くて退屈するのではないかと思ったら全然そんなことはないが、音楽はもとより、おそるべきは演出のおもしろさだ。

ちょっとエッシャーの牢獄の入り組んだ階段のエッチングを思わせなくもない構造的な建造物を背景にトゥランドットが始まる。最初は子別れのシーンで、これは何を意図しているのだろうか? 祖母とトゥランドットなのかな? それともカラフが王宮を追放されたのはこんなに幼い頃だったのだろうかな?

始まる前についプログラムを読んでいたら、大野と演出家のオリエがお互いの噛み合わない主張でやりあっている。大野がアルファーノの大団円でいいじゃんと言えばオリエがあんな終わり方じゃあリューが報われないだろ、あんなの無いよ、おれはイヤだよ。いや、あれはプッチーニが残した部分を考えれば当然至極だよ、いやリューが重要なんだよ、なんだよあの終わりは。

で、オリエは、まあ舞台を引っ繰り返してやると息巻く。

むちゃくちゃおもしろいではないか。

以前の演出はサーカスか何かのキャラバンの中での劇中劇としてのトゥランドットで、それはそれで悪くはない演出だったが、こちらのほうが好きだ。というか、色合いが西村作品のものに近い。そういえば、マクヴィカーのトリスタンの色合いもこんな調子だった。大野の趣味なのかな? おれは好きだ。

歌手も抜群。

完全に2組の交代(皇帝を除く)で、この日はジェニファー・ウィルソン、デヴィッド・ポメロイ、砂川涼子なのだが、砂川涼子のリューは絶品、ポメロイや実に良い声でおおカラフですな、ウィルソンは貫禄たっぷりでこれまた見事なトゥランドット。実に良い。

ピンパンポンが妙に1幕では土方みたいな服で出てきてなんじゃいと思ったが、2幕、3幕とだんだんまともな服になっていくのは良くわからん。歌にある瀕死の中国がカラフのおかげで徐々に良くなっていくことを象徴させたのかな。

負けるな謎解き名人のところでは、群衆が握手を求める。実に気持ちが良い演出。

リューの死はなかなかに壮絶だが死体がいつまでもいつまでも存在し、トゥランドットはそこから離れない。

愛のために自分の命を捨てるというのは、ワーグナー風の女性の自己犠牲による世界の寛解なのだが、それを逆手にとった解釈なのだろう。

ひっくり返すとしたら他に手段はないだろうから(同じ新国立のコジ・ファン・トゥッテのような終わらせ方もないわけではないが)、悪くはない。

それにしても、良いオペラハウスが近所にあるのは実に幸福だ。


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