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us-esat-1でBedrock AgentでRAGを使っていたが次の問題がある。
・KBにS3を使うとus-east-1にバケットを作る必要がある
・Claude3.5がBedrock Agentに対応していない
というか、東京リージョンでClaude3.5が使えるようになったのだから、全部東京リージョンに収めたくなる(AWSコンソールがリージョン切り替えになっているので、他のサービス見ると空っぽでなんだこれ?と思うとBedrockのためにus-east-1にしているからだったりする。
で、BedrockAgentのトレースを見ていてふと気づいたが、AgentのAPI呼び出しはtoolで代替できるとして、よくよく見たらRAGの部分もKBSearchみたいなツールの呼び出しで実装しているじゃん。ってことは、BedrockRuntimeのconverse系API使えば可能なのではないか?
とわかってしまえば、BedrockAgentを使うメリットは1ミリも無い。
・Claudeで最重要なのはシステムプロンプトなので、converse使えば都度変えたければ変えられる
(これが一番のメリットかも)
Ruby用のaws-sdkのbedrockruntimでconverseを呼び出すには比較的最新のバージョンが必要で、1.17であれば呼び出せる。
あとはBedrockAgentRuntimeでできてBedrockRuntimeのconverseでできないのは
・セッションID => これはmessagesをシリアライズすればOK(RubyだとSDKの呼び出しにはSymbolが必要だが一度JSONにするとStringになるので、ここの変換が必要)
・RAGにするにはシステムプロンプトで、検索結果のsourceプロパティのURLを<ref></ref>XMLタグに埋め込み(要素名はなんでも良いので短めにするのは、セッションというか会話履歴を少しでも小さくしたいからなのだった)、参照して作成したテキストは<cite></cite>で囲んでくださいみたいな指示が必要。というか、それでBedrockRuntimeの最終テキストに稀にsourceというタグが入っていることがあるのかと判明。
というわけで、東京リージョンでClaude3.5を使ってRAGもAPI呼び出しもconverse(実際に使っているのはconverse_streamだが)でできるようになった。(RAG用の検索機能ではBedrockAgentRuntime#retrieveを使うので、BedrockRuntimeAgentが不要なわけではない)
- Bedrock Agentはシステムプロンプトに注意
これまでいろいろ試したが、Claude(3-sonnet)はシステムプロンプトの指示の比重が非常に大きい。
Bedrock AgentはシステムプロンプトはAgent Studioの設定が使いまわされるので、プロンプトで別系統の指示を出すと奇妙な結果となることがある。
単にAgent機能(API呼び出し)をしたいだけなら、直接BedrockRuntimeクラスを使ってtoolを設定するほうがはるかに良い結果を得られる(システムプロンプトを都度設定できるので)
おそらくBedrock Agentがバージョンごとにエイリアスを作れるのは、バージョンと考えるよりも、システムプロンプトを変えたエージェント(それ以外のたとえばナレッジベースは共通の場合など)を作成するための役割ではないか?
- BedrockRuntimeのconverseのtools機能は強力
BedrockAgentだとOpenAPI.ymlが必要だったり、エージェントを作ったリージョンにLambdaを配備したりする必要があるが、BedrockRuntimeでToolsを使う分にはそれらの考慮が不要。
・いずれにしろ、Claude-Lambda-実際のAPIと3段階が必要なのでToolsは一度呼び出し元に返ってもオーバーヘッドは変わらないのでは。
家族で化け猫あんずちゃんを観に日比谷TOHO。
僕としてはアニメ側スタッフはまったく知らないが、いましろたかしはタコポン(順序からいけば狩憮麻礼のコンテキストで読んだわけだが)あたりから、妙な絵柄(というのは狩憮麻礼は谷口ジローや松森正のようなやたらと描画能力が高い劇画家と組む印象がやたらと強かったからなので、なんだこれ?と思ったわけだった)の妙な作家というよりも、作家のための作家だろ、この人、という見方をしていたのでむしろそっちに興味が津々(作家のための作家って普通に稼げないから引退したのだと思っていた。最近のらーめん再遊記にでてきた原田みたいな感じ。豚の生姜焼きではなく女の子と猫でポップ化に成功したのかな)。
(怪獣を退治するヒーローになりそこねて新宿をうろつく男が、実は最後の敵が身近な宇宙人だったという(単行本化にあたって無理矢理作ったらしきエピソード)作品がやたらと気に入っているのだが、手元に見つからないし、アマゾンに書影も出てこない。確かデメキングといったような)
で、見始めて、おや父親と娘のパターンなのかとなんとなく電車で神奈川へ行ったりするのでかくしごとを思い出したりしながら見ているし、妙な田舎町に流れ着くので、ちょっとだけ限界集落を思い出したりする。
(地方にイオンができたので就職先も生まれて良かったねとは言えないよなぁ。というか、この時代はYoutubeではなくUSTREAMなんだよな)
と、淡々と見ていると、すすーと風景に完全に溶け込んだ日常風景としてあんずちゃんがオートバイに乗って登場してきて、あまりの自然さに笑ってしまった。もう、完全に普通にでっかな顔したでっかなねこがオートバイに乗って普通に出てきて、普通に降りて、普通に立ち去っていく。むちゃくちゃに異化効果だ。
なるほど、これがロトスコープのマジックか(と後になって撮影技法を知る)。
さらに蛙大魔王(鳥獣戯画の蛙っぽい)が出て来るし、蛙大魔王は家出した果林(字が合っているかは知らん)ちゃん(というのが娘のほうで、父親は金策のために娘を田舎の父親(真っ赤になって怒ると後頭部まで赤くなる)に預けて東京に戻っている)が、電車に乗ってそれなりに遠くに行ったのかと思うと工事現場の穴か何かに落ちたところに趣味の地下道作りで出て来るし(近いだろ)、なぜか妖怪の仲間にお地蔵さんがいるしで、解剖台の上になんでもかんでも出合わせたおもしろさに溢れていて実に楽しい。
半世紀近く活動しているが、デメキングのころのいい加減さは変わらずに、最後の収拾の付け方が全然収拾できていなくて(たとえば母親はせっかく楽そうな地獄の掃除婦だったのに、おそらくもっとひどい現場に派遣されるのは間違いなさそうだし、地蔵だけに何か功徳系の技でも使うのかと思ったら、他の妖怪と十把一絡げに鉄棒で叩きのめされるし、貧乏神は地獄に置いてけぼりだし)実に愉快だ。半殺しの可視化には舌を巻いた。
だいたい、あれだけクソ生意気な果林ちゃんが便器の入り口に躊躇いもなく入っていくのも実に良い。なんか日常感覚のままにあらゆるわけのわからない世界が繋がっている感覚にしびれまくる。寺がソーセージだったり町の名前が(忘れた)だったりどうでも良い語呂合わせがばんすか出て来るのも好きだな。
(と考えてみると、この映画作家がロトスコープという人間の動きをアニメ化する手法を選択したのも、この日常の延長ではなく、日常そのものに非日常が組み込まれているいましろたかしの世界にぴったりだと考えたのかも知れない。どう考えたかはともかく完全にはまっている)
良いものを観た。
化け猫あんずちゃん (コミックボンボンコミックス)(いましろたかし)
(コミックボンボン?)
友人の家でびわ湖のばらの騎士の録画を観る。
といっても最後の三重唱の手前から。
森谷はじめ歌手は見事だが、観ていて実に気持ち悪い。
普通に考えても、普通に日本人が歌っているのに、なぜここまでクラシック演出にするのだろうか? 背景、衣装、舞台装置、すべてがクラシック様式なのに歌っているのが日本人(だと思うが少なくとも東洋人)なのだ。子供の学芸会か、4流の宝塚(宝塚の本物はどんなコスプレでも着こなし見栄えを考えて設計してあるので、違う)という感じで見ていて気分悪い。気分が悪いのは志が低すぎて不愉快だからだ。
これおかしいだろう?
本家のウィーンや近場のルツェルンがコスプレやめてモダン演出しているのに、何が悲しくてこれっぽっちも似合わないコスプレしているのだ。
志が低いというのはこのことだ。オケは抜群(1960年代のイタリア歌劇でのNHKとか考えると60年で西欧300年に追いついて平均レベルであれば追い越してさえいる)、指揮も抜群(阪という人。むちゃくちゃリズム感が良くて前奏曲が始まったとたんにこりゃ凄いと思った)、歌手も実に立派なのに、演出、衣装、舞台設計がすべてをぶち壊している。まだ、ホモキの白ければOK演出のほうが1億倍ましだ。
可能性として(たまにアマゾンのDVD評とかで見かける)頭が悪い観客がクラシック演出でなければチケットが売れないからこうしたんだ、というのもあり得るが、その場合は志が低い観客へ迎合しているわけでこれまた志が低い。いやいや衣装代が安くつくというのは嘘っぱちで、であれば50年前のシェロー演出以来、ジーンズTシャツも全然ありになっているのだからコスチューム代は演出の能力でどうにでもできる話だ。
というわけで、せっかくの良い演奏が実に台無しだった。
タビアーニ弟の『遺灰は語る』がWOWWOWで7/31まで観れるから観ようと妻が言うので観た。
すごくおもしろくて(ちょっと舐めていたので映画館にも行かなかった)衝撃を受けた。
それまでも佳作を作りまくっていた作家が、唐突にキャッチーな作品で大人気を獲得し、しかしそれは大して続かず元の佳作家に戻るというのがある。たとえば侯孝賢が往年童時や風櫃の少年といった凄い作品を撮りまくって、突然悲情城市がヒットする。その後も素晴らしい作品(たとえばマンボのやつとかコーヒーのやつとか)を撮り続けているみたいなもので、タビアーニ兄弟で言うとグッドモーニングバビロンが悲情城市にあたる。が、その後はあまり配給されなかったし、実際、最後に映画館で観たのはフィオーレだと思うがあまり印象にない。
というわけで、わざわざ映画館へ行くまでもないだろうとスルーしたのだが、愚かだった。とてつもなくおもしろい。
物語はどうでも良くて、イタリアの20年代だか30年代だかにノーベル文学賞を取った作家が30年代に死に、遺言で遺灰は散らばして何も残すな、でもそれが無理なら故郷シチリアの岩の中へ埋めろと残す。
が、時はファシズム時代で(ノーベル賞は大して問題ではなかったようだが)立派な文学者として遺灰はローマに置かれる。しかし戦後になってシチリアへの返還運動(?)が起こり、市長が遺灰を受け取りにローマを訪れる。最初米軍機でシチリアへ行こうとするが乗客たちが死者と飛行機に乗るのはごめんだと降りてしまいパイロットの米軍大尉も飛行を拒否する。しょうがないので市長は列車で港町まで進む。
最後、遺灰は3年(30年かも)がかりで海を見下ろす丘の上の巨岩にくり抜いた孔へ納められる。
おまけに短編として作家の書いた劇が流れる。
が、素晴らしいのは一息一息が映画として流れる映画そのものだった。物語は絶妙な間を取ることで微小とともにシーンを飽きさせることなく繋げていく。
火葬場の炎の赤、遺灰を撒く海の青(実際はそのシーン丸ごとだが)を除けば白黒。おまけの短編はカラー。死には色があり、生には色が無い。間による滑稽(飛行機の客、バルコニーの市民たち、カード台の発見)、戸口では子供、近づくと現在、ファシスト協力者の銃殺、アメリカ人のジープとイタリア人の自転車(農村は食べ物が十二分にあるからか、似たような構図でもギミーチョコレートの国とは全然違うな)、唐突に挟まるドイツ人との情交、海辺で遊ぶ子供たち、犬の後脚を持って遊ぶ子供、レストランオープン時の幸福そうな笑顔、母の妻の肖像画を見る、食事風景、公園、野良犬、後ろ脚を持って遊ぶ、赤毛の頭に振り落とされる釘、枝の先に結わえられた白いハンカチ。
犬との遊びの時系列から女の子の喧嘩を両親の息子の奪い合いと重ねているとしたら、釘は少年自身か少年の意志かのいずれかだ。赤毛が父親か母親かどちらなのかが、定めとは何かの答えだ。
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