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日々の破片

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2020-11-23

_ 新国立劇場のアルマゲドンの夢(2回目)

土曜日に続いて、アルマゲドンの夢を観に行く。

さすがに2度目は余裕があって構造も相当見えるようになったが、もう1回観たいところだが、残念、今日が千秋楽だった。

なるほどプログラムでアーマゲドンというフレーズをモチーフとして使うというだけだって、サークル(と書くと語呂が合わないが、ゲドンの部分で合わせているのだったかな?)というところにも利用したりしている。

初回は曖昧に記憶していた柳の歌は冷笑者(この言葉はやはりおかしい。おそらく原作にも出てくるとしたら、ニヒリスト(19世紀末にはニヒリストはほぼテロリストと同義で、つまるところは組織されたプロレタリアートおよびその先行者としての革命家や、バクーニン由来の組織されたアナーキスト(どちらかというとサンジカリストと呼ぶべきだろうが)と区別するための用語だ)で、用語としての日本語であれば虚無主義者)の歌だった。おそらくファから半音下がってミで短三度上がってソ、ソから半音下がってファシャープで短三度上がってラという動きの三度のせいで妙に調性的で耳に残るというか、今回は耳にこびりついた。なぜ赤いハイヒールなのだ?

最後、サークルとベラの対峙の場面は、前回も良くわからなかったが、今回もわからなかった。

ベラが洗脳されたことを憐れんで扇動者を射殺しようとしたところ、弾がそれて少年兵に中ったとすると話は落ち着くのだが、舞台を観ている限りは、突然、あたかも聖痕のように少年兵が腹から(だから聖痕ではあり得ないような)血を流し、それを奇禍としてジョンソンが戦争に持ち込むようであり(一方、既に海岸の家から出てきた時点で戦争は始まっているようでもあり)どうにも落ち着かない。

あえて演出で現実の地下鉄(それにしてはワゴンボーイがいるが、当時の英国の通勤電車はそんなものだったのかな?)の中で主人公を殺すことで、夢と現実の境界を消しているのだろうか?

連想としては、少年兵に対してベラと主人公が躊躇してやめさせようとして逆に射殺されるところは、サウンドオブミュージックの長女の恋人をトラップ少佐が誘うところを想起させる。

未来を意味する2種類の言葉、to comeとfutureの使い分けはなんだろう? と書いて気付いたが、冒頭、まだ物語が始まる前の合唱での未来はto comeでそれはサークルが支配する現在としての未来で、ベラが歌う美しい希望(hope)、愛(love)、未来(future)の未来は本当の意味での未来か。


2020-11-21

_ 新国立劇場でアルマゲドンの夢

楽しみにしている日本人作曲家委嘱シリーズで、無くなるのかと思ったら、こうもりの直前に押し込んできて、おそらく文化庁の予算消化とかの都合で無理矢理だなぁとか官僚仕事にうんざりはしながらも、楽しみだったので観てきた。

いずれにしても現代のオペラは難しい。

市民オペラという形式で観客収入(と、おそらくその後の教師収入)を当てにするしかなかった魔笛のモーツァルト(魔笛より前は王宮の予算のはず)以降、オペラは紆余曲折をたどる。

規模と作曲可能本数、役者/歌手への支払いなどなど規模が大きいだけに厄介至極だということはすぐにわかる。

劇場経営が破綻したドニゼッティ、レストラン経営に移行したロッシーニと明暗分けながら、19世紀にヴァーグナーが魔笛より前のモデル、つまりは王様の予算で収入を得るに戻る一方で、ヴェルディがリコルディと組んで楽譜と著作権収入というモデルを確立する。

みんなが歌いたがるアリアで当てれば楽譜が売れてお金がどばどば入る。

このモデルは市民が自分で演奏する形態からエジソンのレコード登場でメディア売却モデルへ移行し、途中カラオケで市民が自分で歌うモデルになりメディアはストリーミングに移る。のだが、その時にはオペラは主役ではなくなっていたというか、基本誰もそんなものに興味を持たない(街で100人に聞いたら、オペラを聴く人歌う人は0人だ)。

というわけで、ヴェルディが確立した売れるアリアによる著作権収入時代は、プッチーニとコルンゴルトでほぼ打ち止めになり、王宮予算モデルか市民劇場モデルへ逆戻りした。

で、アルマゲドンの夢は文化庁の予算なのだから王宮予算モデルであり、実績ベースの予算配分となる以上は、無理矢理押し込むしかなかったのだろう。

おかげで、日程調整が難しく、厄介なことになったのはこちらの事情だ。

頭白紙で観たらどんなものだろうかと試して、鑑賞後にプログラムを読んだのだが、誤読の嵐で、自分のことながら情けなくもあり、おもしろくもある。

まず、全体的に20世紀~21世紀のオペラ史をたどっているのかと思った。

最初に合唱で舞台が説明されるというのは、普通にオテロっぽく感じる。オテロはこの後も、柳をテーマにした歌が出てくるが、オテロというよりはむしろヴェルディその人だろう。1900年、まさに19世紀が終わる年に死んだのだ。

娼婦と思われる女性との空想的な恋愛から始まり(ここではアップを多用したスクリーンプロセスがアランレネの広島モナムールを想起させてアルマゲドンの夢という題をまさに思わせる。もっともそこに舞台の動きがからまるため、全体の印象はロブグリエの映画のようでもある。ちょっと60年代っぽい)、海岸の素敵なコテージかコンドミニアムでの甘い生活となり、途中で世間様という動きが二人の生活にちゃちゃを入れ二人を別れさせるための闖入者が出現する。そして妻であるべき女性が死ぬ。

椿姫だ。

一方、地下鉄の中で背景説明が行われるのは、バーンスタインのオン・ザ・タウンのようである(もっとも原作が通勤風景らしい)。

いずれにしても楽曲的な関連はないのだが、オペラを観るという行為によって喚起されるものとしてはヴェルディ以降のオペラ史だ。

大衆の前で吊し上げられ拷問され死んでいく二人の主人公にからむ近しい存在は、リウを当然思わせる。

ただ(ここは完全に誤読していたようだが)リウに相当する冷笑者を、おれは、主体的なテロリストなのだと読んでいた。

この大衆たち、サークルは、白いヘルメット、甲殻姿(コロナによるマスキングが不要だったら、別の衣装となっていたのかも知れないが)は、オペラはオペラでもスペースオペラ、つまりはスターウォーズを喚起し、サークル=ファーストオーダーとして観始めている自分に気づく。なるほど、ベラは直前までは椿姫だったがトロツキーが家に訪れて(と、突然、虹色のトロツキーを想起するような冷笑者のスタイル)、レイになったか。レイの出自はパルパティーンで、同じくベラの両親はサークルの創始者であった。

終わりに近く、二人がサークルにテロリズムを仕掛ける直前に歌うアリアが抜群に美しい。メロディはあくまでも現代の音楽の文脈、無調性にあるのだが、未来と希望について腹中の子供へ語り掛ける。

ここでもトロツキーを想起する。

人生は美しい。未来の世代をして、人生からすべての悪と抑圧と暴力を一掃させ、心ゆくまで人生を享受せしめよ。

もちろん、そんなに世界は甘くない。100年たっても悪も抑圧も暴力も謳歌している。しかし、そうはいってもそうであるべきなので、この言葉は美しいのだ。同じく、未来と希望についての美しい言葉にふさわしい美しい音楽だった。

良い舞台だった。


2020-11-20

_ Prawnで禁則処理

Prawnを使ってPDFの作成を試しているのだが、どうも不自然で不思議に思ったら、行頭に「。」がある。つまり禁則処理が全然ないことに気付いた。そりゃそうか。

で、マニュアルを読むと、text/line_wrapping.rb の項で中国語の文章を単語で泣き別れしないようにZWSP(幅無し空白)を単語の区切りに挿入して与える例が出ている。
ということはこれを真似すれば良いのだろう。

禁則文字というか要は約物が直前の文字とくっついていれば良いわけで、それ以外は全部どこでちょん切っても良いのだから、約物一覧をまず探すと、確かOfficeの設定にあったはずだと思い出す。

で、Wordのオプションで文字体裁を見ると!%),.:;?]}¢°’”‰′″℃、。々〉》」』】〕゛゜ゝゞ・ヽヾ!%),.:;?]}。」、・゙゚¢が行頭禁則文字となっている。行末禁則文字もあって、「などを行末に置くことを禁止しているが、そんなルールは小学校では習わなかったので無視でいいや。

というわけで、あまり考えなくても、各文字の間にZWSPを挿入してから行頭禁則文字の直前のZWSPを削除すれば良さそうだから、次のようにテキストを変換してからPrawnへ与えれば良いのだなとやってみた。

text = text.gsub('',  Prawn::Text::ZWSP).gsub(/#{Prawn::Text::ZWSP}([!%\),.:;?\]}¢°’”‰′″℃、。々〉》」』】〕゛゜ゝゞ・ヽヾ!%=),.:;?]}。」、・゙゚¢])/, '\\1')

大体良いようだが、数字の連続の泣き別れ(1,000円が、1,と000円に行で分かれる)とかはどうなのかちょっと微妙な感じがする。とはいえその場合は、gsub(/[0-9]#{Prawn::Text::ZWSP}/, '\\1')すれば大体良いだろう(数字の直後の1文字まで含めて移動することになるが、単に数値だけが表示ということは無いはずだから問題なさそうだ。「,」と「.」の直前のZWSPは削除済みだからこれで良いはず。


2020-11-02

_ 新宿歴史博物館

どういう脈絡か忘れたが、妻と新宿歴史博物館へ行こうという話になった。

都バスの荒木町で降りて杉大門通から一本早稲田寄りの小路に入る。柳新道というらしい。で、猫廼舎の裏を通って車力門通りに抜けて、途中お稲荷さんと弁天さん(池はあるけど五寸釘が生えるようなご神体は無いのかな)を通り、やたらと美しい建築の古いアパアト(と、モダニズム調の表記が合うが、戦後の建築物だろう)を通ると、道なりの曲線に沿って異様に塀のカーブが美しい家の前を過ぎて、津野坂通に出る。で、津野坂通を挟んで半蔵門側はやたらと近代的な敷地を広く取ったビルやら空き地やらがあり、どうしでここまで風景が異なるのか、とか考えながら歩くと新宿歴史博物館に着いた。

脇を車で通り過ぎたことはあるが、来るのは初めてなので楽しみだ。

常設展とは別に、特別展で小泉八雲をやっていたので共通券を買う。

小泉八雲はいくつもの記憶と共にある。最初に買った文庫本は小泉八雲の怪談・奇談で、角川文庫だった。まだ源義が焼跡うんぬんの創刊の辞を後ろに載せていたころだ。

怪談・奇談 (角川文庫)(ラフカディオ・ハーン)

(今や随分モダンな表紙になっているが、僕が買ったのは餓鬼草子から抜き出した幽鬼の絵だったような)

そもそもそれより前に家族で山陰旅行をしたときに松江の小泉邸の八雲が住んでいた狭い部屋とその前のこじんまりした庭は見ているが、その後妻と再訪したので、どちらの時の記憶かは曖昧だが、こじんまりした庭がユニバーサルで実に興趣があった。

とはいえ、新宿が終焉の地という認識はなかった(が、よくよく考えれば知ってはいたのだ)。

まずは常設展に入る。

渋谷や港区とは違うな! というのが第一印象で、江戸時代の内藤新宿の賑わい(それにしても、外堀よりも外側で、さらには大門すら通り過ぎた後にまでの賑わいが不思議で、甲州金山は比較的早く潰れていること考えると、なぜだろうかと疑問に感じる。まあ、百人町とか物騒な連中が住まわされているのだから、江戸時代もそれなりに賑わってはいたはずだ。と、簡略化した新宿通りの江戸時代の再現ジオラマを見て不思議に思う。

まあ、神田川と外堀があるから運輸の中心でもあるわけで、そうおかしな話でもないが、それにしても太田道灌の時代から新宿は新宿なんだよな。

ちょっと細民窟に近いあたりの人別帳が出ていて、圧倒的な古着屋量で、なんかいろいろ仕入れとかについて想像する。中に粉奈屋というのがあって、はてなんだろう? 粉の奈というのはわからんがパンみたいなものか? と調べたら、粉奈と書いて「こな」と読むとわかり、ほーどうして現代語では「奈」が欠落したのだろう? と不思議になる。

そして明治になり怒涛の文人攻撃が始まる。どうしてこんなに新宿なんだろう? (徳富蘆花が渋谷区だというのは知っているが、それにしても新宿の多士済々っぷりは壮観だ。

展示の工夫が特におもしろいのは、昭和初期の新宿駅を訪問する人間6種類の金の使いっぷりの展示だった。

会社員は定期で直接の支払いは0円。カフェーによってムーランルージュのレビューを見て云々で全部で幾ら使う一方、その妻は伊勢丹で夫の背広の相談0円、白粉買って100銭(金額はうろ覚え)、子供と伊勢丹の食堂できしめん(なぜきしめん? 当時、名古屋ブームでもあったのかなぁ)食って11銭、新宿駅に来るのに市電に乗って35銭(金額はいい加減)。

学生は(忘れた。本屋へ行って喫茶店に行くとかだったかな)。活動は見たかも。

有閑マダムは省線で新宿駅に出るので15銭(うろ覚え。会社員の妻よりも安いのは、都バスだと210円だが、小田急線だか京王線だかなら160円くらいで安いってのと同じだな、と思った)、中村屋でカレーを食べて80銭、あとは何をしたかな。

唐突に映画監督というのが出てくるが、要はマスコミ関係者ということだろう。

円タクで来るので1円(この時点ですでに会社員の妻や学生を遥かに上回る金額が出て行く)。その後もダンスホールへ行ったりしてみるみる円単位で金が出て行き、全部合わせて15円みたいな勘定だった。

あまり変わらんな! という印象も受ける。

驚くのは、乗降客数が、東京、上野がそれぞれ15000人に対して新宿は35000人と倍以上を捌いていることで、なぜ? と思う反面、東京や上野は上京用で、会社員の日常使いの駅ではないからかな、と考える。

おもしろかった!

で、特別展へ行く。

入るといきなり、八雲が着ていたスーツというのが展示してあって、小柄っぷりに仰天する。こりゃ確かに日本に来て気分が落ち着いたというのも無理からぬことだ。

小泉八雲については知ってはいるが、そうは言っても渡米してからの苦難の歴史と恩人にして友人(にして父親代わり?)にして雇い主との大量の手紙が展示されていて興味深い。ポーに因んで大鴉(Raven)と呼ばれていたので、手紙には鴉の絵が書いてあるとか(結構うまい)、嫌いな犬が吠えている絵とかいろいろある。それにしても書き文字の英文は読めないなぁ(書き文字の明治の日本文も読めないけど)。

年表に帝大馘首の横のその他欄にさらりと夏目漱石倫敦から帰日とあり、あーそういえば不機嫌亭漱石でそのあたりのことが書いてあるのを読んだなと思い出す。

坊っちゃんの時代 : 5 不機嫌亭漱石 (アクションコミックス)(谷口ジロー)

息子が描いたほぼ唯一の左からの顔とかいろいろ見ながら、激動の幕末から明治に日本に帰化して物静かに日本を眺めていた不思議な人という思いを強く持つ。近代化を嫌ったので熊本(かな?)に馴染めなかったということが書いてあって、妙なところで坊ちゃんと縁があるなぁと思った。もっとも坊ちゃんは松山だが、むしろ田舎の中心地のほうが近代化というか人々の変わり身の早さがあったのかも知れない。

それにしても、新宿区は良い仕事しているなぁと思った。


2020-10-31

_ 博品館劇場でアルジャーノンに花束を

子供と博品館劇場にアルジャーノンに花束をを見に行く。をが重複するな。

原作は早川のSF全集に収められていた短篇では何度も読んだが(といっても中学生の頃だ)長編化したやつは読んでないし、どうミュージカルに仕立てたのかまったく見当がつかないので楽しみだ。

チャーリーがやたらと小男で子供みたいだが(という演技というか演出で、頭脳の明晰っぷり化と同時に服装から背の高さまで変わる(わけないから、猫背とか遠近とかでうまく処理しているのだろうが、最初のキリアン先生を訪問するときの印象(まさに大人と子供)と、終盤のキリアン先生がチャーリーの頭脳明晰っぷりに疎外感を持つと歌うところ(完全に対等以上)の印象では全然違うのが実に見事だ)。

短篇では書かれていなかったか、または全く記憶に残っていないかわからないが、元の職場のパン屋で段々と孤立していく描写が実におっかない。こんなにおっかない話だったのかなぁ。どうも、天才化することでネズミの変化から先が予測できてしまって今度は失うことへの恐怖を理解して、結局元に戻るという大筋以外は忘れていたようだ。あるいは、人間関係(特にパン屋)には興味を持てなかったのかも知れない。

同じことは家族関係についても言えて、まったく記憶にない。白痴(この言葉が新聞記事の見出しとして読み上げられるところで妙な衝撃を受けた。今でもドストエフスキーのムイシュキン公爵の物語のタイトルで現役の言葉のはずだが、完全に自分の中では死語になっていたようだ)ならではの単なる男女差についての好奇心を性的なものとして捉えた母親との関係や、手がかかる長男に対する父母の関係から自分が疎外されていると考えた妹との関係、大らかな包容力はあるものの実務的にはまったく母親に育児を押し付ける父親(とはいえ独立開業資金獲得のためでもあり、金銭的な余裕が子育てには必要と考えたのだろうとは読めるので、押し付ける一方というのもフェアではないが、そこをきれいさっぱり子供のことを忘れている(といっても、顔つきからして変わっているわけだろうからわからなくても当然のような気もする)ということにして、善良一方とも言い切れないようには仕込んではあるが微妙な位置付けだ)とか、恐怖の的扱いされている療育院(というか、物語時点の母親はここへ送り込んだほうが良いのでは? と思わなくもない)とか、まったく覚えていなかった。それにしてもパン屋の親父は良いやつだな。

その意味で、小学生の頃の愛読書の金色のライオンと同工だと思っていたが、最初から最後まで子供の視点で描かれる金色のライオンとは随分と内容が異なるのだな、と知った。印象はどちらも、獲得した知性を失うという喪失の物語だったのだが、アルジャーノンに花束をの場合は(脚本がどこまで原作に忠実なのかはわからないが)むしろ、知性を得ることによってそれまでの自分と現在の自分に対する相手にとっての立ち位置の変化が与える影響という物語でもあったのか。

金色のライオン(著者:香山彬子 絵:佃 公彦)

(急死した博士が作った(ライオン自身による再現には失敗した)薬によって知性を獲得したライオンと子供の交流の話で、途中は子供によるライオン探しの冒険となり、最後は薬効が切れて知性を失い野生に戻れば親友となった子供を噛み殺すことをお互いに理解した二人の別れの物語。重要なのはライオンの記憶から二人の友情が消失するということで、肉体的・距離的な別れとは次元が異なる喪失という抽象を読者の子供にきちんと理解させる作家の手腕の上手さと思う)

心理学者と脳外科医の立場が、最初は慎重派の心理学者に対して手術したくてたまらない外科医という構図が、学会発表の前には発表したい心理学者に対して慎重になる外科医(考えたら、責任は外科医のほうが重いからかな)とか、パン屋での二役も含めてうまくできていると思った。

研究所を抜け出した後の画学生との交流についても記憶がないけど(長編にしかないのどえはないか?)、なんかこのあたり(特にキリアンと衝突するところあたり)の筋立ては女はバカのほうが良いみたいな印象を受けて妙な感じを受けた。

「死なんて 真夜中に背中のほうからだんだんと……巨人になっていく恐怖と比べたら

どうってことないんだから」というねじ式のセリフと同じ恐怖(巨人ではなく、白痴に戻るということにスライドすれば)はそれにしてもおっかない。はずなのだが、舞台ではそこの恐怖というものは全く感じられなかった。そこはもちろん台詞としては元に戻った後の呟きは涙を誘う(可哀想というのではなく、喪失したという事実に対してなわけだが)のだが、随分と印象が違うものだ。

とにもかくにも役者も演出も音楽も良い舞台だった。

アルジャーノンに花束を〔新版〕(ダニエル キイス)


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