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日々の破片

著作一覧

2024-05-05

_ 素数たちの孤独読了

承前

素数たちの孤独という小説はあまりに主人公たちの考えや行動が痛々しくて読むに耐えないのだが、物語そのものは興味深いので結局ちまちま全部読んでしまった。それにしてもあまりにも痛切(というよりは、現代日本語の「イタイ」に極めて近い)。

書いたやつが物理学者だか数学者で、男側の主人公はまさに数学者(になる)のちょっと頭が周囲から見ればぶっ飛んでいて(強烈な自傷癖がある)、女側は高圧的な父親に委縮、後に反抗なあまり自ら災厄を招きまくって現在拒食症真っ盛りという二人の相当外れた主人公が8歳から30過ぎまでを、特定時点の断片で描く奇妙なイタリアで大ベストセラー(200万部売ったそうだが、人口から考えるととてつもない)となった恋愛小説だが、イタリア人ってこういうイタイのが好きなのだろうか。

イタリアで考えてみればモラヴィアもそうだし、ベルトルッチは殺しから最後までそうだった(というかブッダですらそうだった)。というか、そもそもこの本に手を出したきっかけはベルトルッチの孤独な天使たちが原因だが、映画と小説では言葉の動きが異なるので相当小説だとつらいものがある。

高校時代に二人は出会い、男の部屋のベッドの上でごろごろするくらいの関係となるのだが、とにかく男も女もほぼ性欲が無い欠陥人間なので(なのでごろごろしているからすることをしたのかと思ったら全然違って、本当にごろごろ寝っ転がっているだけだった)、恋愛小説といっても実に形而上での恋愛となり、最後に、ああやっぱりという終わり方となって、肩透かしというか、納得というかとなる。一点解決されない問題があるのだが(それが男側の大きな傷で、女側はそれをどうにかしたい)解決させないのは良い作法なのだろう(というか、作者自身がどうすればよいのか計算できなくなったと見た)。

素数たちの孤独 (ハヤカワepi文庫)(パオロ ジョルダーノ)

で、書影のISBNを取りに行くのでアマゾンに分け入ったついでに作者をクリックしたら、この作家はコロナの始まりのころに一時話題になった(確か出版前に一時的に公開していたのではなかったか? 読んだ記憶がある)『コロナの時代の僕ら』の作者だった。そう言われてみれば一貫性があるように思う。

コロナの時代の僕ら(パオロ・ジョルダーノ)

とはいえジョルダーノといえば、おれにはフェドーラやアンドレア・シェニエが最初に来るのだ。


2024-05-16

_ アスミック・グリゴリアンのリサイタル

上野にグリゴリアンを観に行く。空模様がちょっと怪しいが手ぶらで行ったので帰りは降られてしまった。

グリゴリアンは最初、(たしか)ザルツブルクのプッチーニ三部作単独ソプラノを友人の家で視た。

さすがに、聖女アンジェリカを真ん中でやるのは無理だったらしく、外套-ジャンニスキッキ-聖女アンジェリカの順だったが、びっくりした。30近い(実際は24歳くらいだろう)夫に物足りない人妻(と書いて、実は道化師のプッチーニ版だったのかな? と思う)、10代の素直(小鳥にくそまじめに水をやったり餌をやったり)だが恋のためなら親父を脅迫する(ポンテヴェキオから飛び降りるわよ)のも厭わない小娘、20代だがすべてを捨てさせられた母親の全然異なる三役を見事に歌い分けるとは。

というわけで、楽しみに観に行ったのだ。

上演前にオネーギンの下降音型の練習を管の人がやっていて、そりゃ本番中にとちったら地獄だよなぁと思う。

東京フィルが出て来ると第1ヴァイオリンが全員女性で、新国立劇場とはシフトが違うなぁとか思う。女性歌手の伴奏なので女性主体に構成したのかな?

最初はルサルカの序曲で、次が月に寄せる歌(おれにとってはこの歌はカエルの歌なのだ)という順番なので、序曲が終わったら出て来るのだろうなと観ていたら、唐突に竪琴が鳴る。あれ? 序曲だったよなと思っていると下手から黒い衣装でスタスタと出てきてそのまま月に寄せる歌になった。したがって最初の登場時には拍手はない。見事な演出だ。

それにしてもドヴォルザークのゴミ箱を漁りたいとブラームスをして言わしめたドヴォルザーク会心の美しい歌(新国立劇場でルサルカ観たが、この曲が始まった瞬間に空気が変わったのを覚えている)で掴みはばっちり。

で、大好きなチャイコフスキーの手紙の歌だが、これまた抜群。

グリゴリアンの歌はどちらかというと冷たくまっすぐに通すので、震える歌声が嫌いなおれには実に好みなのだ。それにディナミークが抜群。歌劇とは違ってソロリサイタルなので表情の付け方の細やかさが良くわかるのも良い。良いものを観られて嬉しい。表情(顔も声も)、手振り、実に細やかでまさにオペラ歌手の歌だ。

マズルカを聴いていて思ったが、この指揮者のテンポ感は抜群なように思えるが、それ以上に、いつもはピットの中から湧き上がる音を聴きなれているからか、舞台の上からまっすぐに聴こえてくるオーケストラの細やかさは実におもしろい。とういか東京フィルはうまいものだ。

スペードの女王は良く知らない曲なのだが、これまたおもしろく、最後のアルメニアの作家の曲も全然知らないが、楽しめた。

第2部はプッチーニ側なのだが(時間の余裕がないのでRシュトラウスのほうはパスしたのだが、そちらはそちらで抜群だったろうなと思う)、かって知ったる曲ばかりだから(というか、プッチーニは初期2作と燕以外は何度も聴いている)より陰影がわかる。

テンポが時々微妙に食い違う気がするが、指揮者も歌手もうまくずれを補正しているように聴こえる。補正をその場で行っているのか、それとも最初から多少ずらすように示しあっているのか、わからないがライブならではのおもしろさがある。

それにしても、これまでスルーしていたが、マノン・レスコーの間奏曲がこんなに良いものだとはまったく気づいていなかった。トゥランドット3幕のソロヴァイオリンでプッチーニのソロの使い方のうまさは知っていたが、間奏曲でセロ、ヴィオラ、ヴァイオリンが順にソロを弾くのが実に美しい。この時点でプッチーニのオーケストレーションは完成していたのだな。

ある観点からは、舞台上のオーケストラの美しさの再発見がこの日のコンサートの大収穫だった。

アンコールは歌に生き恋に生きで、ここで歌うのかとプログラミングのおもしろさに舌を巻いた(質的にはラウレッタの歌をアンコールにして、トリを歌に生き恋に生きにするほうがそれっぽい気がする)。


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