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日々の破片

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2019-08-11

_ ミュージカルのロミオとジュリエット

子供がロミオとジュリエットのDVD(大野/木下組)買ったから観ようというので一緒に観た。

ジェラール・プレスギュルヴィックという人の作品。

どこまでが日本版の演出でどこまでがミュージカル作者の設定かわからんけど、いろいろおもしろかった。

いきなりハイ&ロウのルードボーイみたいな連中が暴れ始めるので現代演出かな? とか思いながら観ていると、こともあろうにモンタギュー側のマーキューシオ(シェークスピア的には大公の親戚ということで割と余裕で悪事に手を染める軽いやつ)が、狂犬みたいなギラギラ野郎で、むしろ狂犬みたいなギラギラ野郎のはずのキュピレットのティボルトがおっさんくさいドスの利いたヤクザ者で相当とまどう。とはいえ、ベンヴェーリオはホーレショやケント伯と同じくシェークスピア劇特有のちょっと離れたところで主人公に寄り添って出来事を観察し説明する役回りでそこは変わらない。

ロミオが登場すると、ふにゃふにゃ野郎みたいに言われるのだが、世界の王というすごい傑作を歌ってその場のみんなが納得する。

実際、ロミオの想定通り、ロミオとジュリエットの結婚により両家の争いが収まる可能性すらあったわけだが(ロミオは別に打算的にジュリエットと結婚するわけではないのだが)、そういう器量の持ち主ということが見事に示される。うまいミュージカルだ。

ジュリエットが16歳と言うのでここも相当不思議に思う。文句なしの14歳なのに。あとで、ロミオの旅立ちの日に裸で一緒にベッドに寝ているシーンがあったので、なんかのコードをクリアするためにハイティーン設定にしたのかなぁとか思った。

シェークスピアの劇ではモンタギューとキュピレットの政治バランスが人事的にむちゃくちゃ悪くて(モンタギューは、ロミオ、マーキューシオ、ベンヴォ―リオと3頭体制なのに対してキュピレットはティボルト以外は雑魚とジュリエットしかいない)、それはティボルトがマーキューシオを殺して、ロミオがティボルトを殺して、ベンヴォーリオは傍観者役だから死ねない以上はしょうがないバランスなのだが、ここではバランスを取ろうしたのかティボルトとジュリエットの父親がやたら重い役を背負わせられている。

どうもほのめかしなのだが、ジュリエットの本当の父親はティボルトで、しかしティボルトはそれを知らなくて(ジュリエットに恋している)、父親はジュリエットが実の子ではないことには気づいていて(殺そうかと思ったが、育てた子供の可愛さ、どうしてそんなことができようか、それにしても妻は私を愛していないと、まるでドンカルロスのフィリポ2世のような歌を切々と歌う)しかもどうやらティボルトの子供らしいと気づいていて、一方母親はジュリエットに本当のことを教えたくてうずうずしているのだが辛うじて自制しているという複雑さ。

僧ジョンは出てこず、代わりに神父がメールを打つが、ロミオはスマホをマントヴァの不良グループに盗まれてしまって読めないという設定。

パリスは大公との関係はなく、単なるお金持ちの頭悪い人という、なんかリーズの結婚みたいな設定で、墓所にも来ない。

来ないおかげでロミオはさっさと毒を呷って死ぬ。

そしてジュリエットが目を覚ますと、ロミオロミオというとても美しい歌を歌う(なんかよくわからない貼り付けたハンガリー版の1:30あたりの箇所だが、ハンガリー語でロミオと言っているのかどうかさっぱりわからない。それにしてもこの曲のうまさは、ちょっとミシェル・ルグラン風のいかにもフランス風ミュージカルで始まるのが0:55の転調で再度元に戻し1:22の転調後にロミーオロミーオで飛翔するところで、実にうまい。才能がある作曲家というのはすごいものだ)。バレエのロミオとジュリエットもそうだが、目覚めて希望に満ち溢れていればいるほどその後の衝撃がかわいそうになるわけだが、これも見事な音楽なだけに可哀想さが100万倍だ。

シェークスピアと同じく、ロミオの手の中の毒瓶を取るが毒は残っていない。ロミオの口から毒を吸おうとするが、それもできず、短剣で死ぬ。

死骸の上でデタント。

ROMEO ET JULIETTE(OST)

上のハンガリー版の歌は何でMADしたのかと思ったら、アニメでロミオ×ジュリエットというのがあったのか。ハンガリーで日本のアニメとフランスのミュージカルを魔合体させてるってのがちょっとおもしろい。

[シェイクスピア没後400周年記念]アニメ「ロミオ×ジュリエット」memorial DVD-BOX


2019-08-17

_ 世田谷文学館に「かわいい」を発見に行く

妻と世田谷文学館の原田治展「かわいい」の発見を観に行った。

一応駐車場があるようなので、地図を見ると駅に近いし、いざとなればタイムスとかもありそうなので車で行った。

すると、駐車場の場所はすぐわかったのだがどうも勝手が違う。先行する車がリフトに乗ったのだが、運転手が出てこない。

えらく時間がかかって係員に呼ばれてリフトの前に進めて妻が下車する。

しばらくすると、係員が妻に気づき、待っているのなら車に乗れと指示する。妻が怪訝そうな顔をしながら乗ってきたので、運転手が出てこなかったから、回転式パーキングではなく、駐車場へ車を運ぶエレベータなのではないか? と言う。係員は妻だけ先に入館すると考えて最初に降りた時点ではスルーしたのだろう。

しばらくすると係員がトランシーバーで何か話した後、こちらに来て、これから出庫する車がいるから表に出て待て、と告げた。で待った。すごく待った。どえらく待って、車が出てきて、やっと番になった。

すごく狭そうだがドアミラーを畳む必要が無い程度には幅があるエレベータの中に入ると、係員が最初に確定ボタンを押してからB1を押せと言う。

ボタンを見るとえらく遠い位置にあって、手が届かない。そのくらいしてくれりゃいいのにと思ったが、どう考えても係員が入る隙間がない(届かないのはボタンのある壁から距離があるのではなく、ボタンがドアミラーより前にあるからだ)。これはしょうがないと、扉を細めにあけてどうにかボタンを押した後になって、妻が、こっちのほうが押しやすそうだから押そうか? と言いだしたがもう遅いよ。確かに左側のボタンのほうが押しやすい位置にある。

で、扉がしまると矢庭に車が90度回転してびびる。なんかむちゃくちゃおもしろいのだが、動作が途轍もなく緩慢だ。

回転板が固定されたらしく下り始めるが、これがまた遅い。かっての青山紀ノ国屋のエレベータよりも遅い。

なるほど、こりゃ時間がかかるはずだ。普通の人の脚なら、駅から2往復はできる。こんなに暑くなければ京王線で来るほうが正しいのだろう。

と、入館前からいろいろな文学的体験がありまくって期待しまくりとなった。

原田治は妻がオサムグッズ好きなので意識するようになったがすでに30年以上前の話だ。妻が持ち込んだ缶だのタオルだのは、最初はあまりに好みとは異なるので感心しなかったのだが、そのうちかわいいものはかわいいと思えるようになってむしろ好きになった。

わざわざつきあってくれた? とか聞かれたときに、いや、おれも好きだから楽しみだ、と虚心に答えたのは本当のことだった。

2階の特設会場に行くと、写真撮影はOK、ただしフラッシュはたかないこととか書いてある。商業デザイナーの作品の展示とはこういうことですか! と、不意打ちを食った気分になる。

まさにポップだ。

最初に生涯が書かれている。1946年ということは敗戦の翌年生まれで、子供ころから画家に師事して、青山学院の中、高と進み、画家の先生に画家になれるか? と聞くと、実家が太くて遊んで暮らせるなら画家になれると教わって、商業デザインに進むことにしたというようなことが書いてあっておもしろい。

おもしろいが、小学校の絵日記(妻曰く、両親が保存しているところが既に裕福な家庭)が展示されていて、家庭教師が家に教えに来てくれて勉強したあと、画家の先生の家に行ったというようなことが書いてあって、妻が、やっぱり裕福な家だと言うのだが、でも画家にはなれない程度には裕福ではないじゃんと言ってみる。

同じく小学生のころの写生を見ると建物が透視図法できちんと書いてあって基礎がちゃんとあってのかわいいデフォルメなのかなとか思うというか、OSAMU GOODSの絵はすごくぺったりしているのに立体感があるのはこの辺にあるのかなとか考える。

紐育の修業時代の作品からアメリカ文化の何を学んだのかが見えておもしろい。

大瀧詠一なんかと時代精神を共有しているのだなと思い、ああ、まさに1970年代後半~80年代の文化の先っぽの一人だったのだな、と感慨がある。ハリウッドランチマーケットやオキドキなんかに通じるものがあるわけだ。

で、an・an時代に突入。少しも知らなかったがペーター佐藤とコンビを組んでいたのか。

街ガイドのイラストがすでにオサムっぽい。

犬と小僧

えらく感心したのは、こういうイラストが細かく作られていて、それをおそらく編集者がペーター佐藤のものや地図と組みあわせて誌面を構成していることで(誌面がまず展示されている)、エディトリアルデザインが抜群なことだ。

これはとがっているはずだと感心する。おれの中では、マガジンハウスのan・anに対して集英社のnon-no、マガジンハウスのPopyeに対して講談社のホットドッグプレス、マガジンハウスのブルータスに対して小学館のDIMEという、雑誌カテゴリでのアンテナ:マーケットという関係があったのだが、エディトリアルデザインの力の入り方がまさにその図式そのものだ。

それはそれとしてan・anの切り抜き類はおもしろい。キラー通りの今はサラダバー、その前は靴屋の前は帝人ショップの場所がVANだったころのストリートマップがあって、今や廃屋のパスタンがあり、今も生き残った福蘭がありの間にBIGIが宮廷マンションのあたりにあって、へーそうだったのかとかいろいろ知っているもの、知らないもの、覚えているもの、まったく気づきもしなかったものがたくさんあって記憶が刺激されまくる。

で、an・anを出発点としてOSAMU GOODSが1976年に始まるらしい。

が、それ以上に驚いたのは気付かないだけで山ほど原田治の作品を見ていたことだ。

半蔵門線に乗れば(営団ではなく田園都市線、東急の車両だと思う)クマが危ないよ! と注意しているのだが、これが原田治。

危ないよのクマ

崎陽軒のシウマイの醤油瓢箪が一時絵柄が変わったなと思っていたら、これが原田治。

ひょうちゃん

というか、カルビーポテトチップスのジャガイモが原田治。

ポッキー(プレッツエルかも)の箱の絵(この箱は見た覚えがない)で、パッケージデザイナーか代理店のクリエイティブかとやり取りした下書きが何点か展示してあって、「お前のクソデザイン案だと襟がうるさいからTシャツにしろ」「お前のクソデザイン案だとカップじゃなくて湯飲みにしか見えないから、取っ手をつけてやったぞ」「指だけ出したら気持ち悪いだろ、腕を示した方が良いぞボケ」とかをきれいなビジネス用語で書いていて、おお、大人の商業世界の人間だと思う。プログラマもクソコードとか言ってはいけないとかちょっと考える。

パッケージデザイナーだか代理店のクリエイターにもこだわりがあるようで、襟はなくっているし取っ手もついたが、カップは宙に浮いているのが最終製品になっていて、これもおもしろかった。

さらに見て行くと構造と力の装丁が原田治。そうだったの?(原田治を家に持ち込んだのは妻だと思っていたら、おれも持っていたわけだ)

で、当時からポップな北園克衛(ちょっぴりモンドリアン風味)と思っていたわけだが、原田治自身が北園克衛の強い影響下にあったことを知り、かわいいと北園克衛の間についていろいろ考える。

晩年の原田治は東京湾の小島にアトリエを作り、発表しない抽象画を描きまくって過ごしたとある。唯一公開した作品の黒い船(というような名前)の連作があって、なぜ発表せずに自分のために描き続けたのかなんとなくわからなくもないような気になった。公表されている作品自体は素晴らしく良いのだが、あまりにデザイン的に洗練された北園克衛風味なのだ。それなりに孤独でありぼうとした心象があり印象はあるが、本人としてはあまり公表するような性格の作品ではなかったのだろうなぁ。

北園克衛詩集 (現代詩文庫 第 2期23)(北園 克衛)

(で、おれは北園克衛が日本の詩人では萩原恭次郎と同じくらいに大好きで、なんか不思議な気分となる)

最後、一室を使ってOSAMU GOODSの一大パレードとなる。

マザーグースだったのか! と背景を知りすごく納得しながら、コンセプトを見ると、かわいいとは明るく楽しく、でもそこに一抹の寂寥が加わることというような定義があって、これまた納得する。かわいいは永遠ではないし、そればかりでもない。

70年代後半からバブルが崩壊するまでの世界は見事なまでに崩壊するまで突っ走っていた、その崩壊をほんの少し予見させるものでなければならなかったのだ。

実におもしろかった。良い時代をお互い過ごせたよな、と妻を眺める。

1階の常設展(?)のほうも眺める。

ムットーニという人のからくり本の上映というかからくりが動作するのを待つために、仁木悦子の展示を見る。

おれ、この人の本を読んだことないなと思いながら展示されている説明や他の作家との書簡などを眺め、こんなおもしろいのかと目からうろこがばりばり落ちる。作家の書簡のおもしろさを初めて理解した。

猫は知っていた (講談社文庫)(仁木悦子)

特に寺山修司との大量のやり取りがおもしろい。

きっかけは、雑誌で仁木が半身不随で動けないことを知った、詩集を自費出版したばかりのネフローゼで身動き取れずに療養中の寺山が手紙と詩集を仁木に送り付けたところから始まる。

原稿用紙に書いた手紙だ。

すごく一方的でなんじゃこりゃと思うのだが、お互い身動き取れない同士で手紙による交流が長く続く。

仁木側の展示だから、展示されているのは寺山のものだが、最初は原稿用紙だったのが、カリグラフィーでビジュアルに凝った自由形式に変わっていったりが実におもしろい。良くわからない虚勢のようなものがあったり、実におもしろい。

筒井康隆の年賀状がこれまたおもしろい。

寅年の年賀状はトラ尽くしでベントラ・ベントラで締めくくってあるし、多分卯年の年賀状は悪いバニーガールが出会う人たちからひどい目にあいまくる短文だし、なるほど、この世界の人たちはこうやって生きているのかと思った。

それにしても仁木悦子は読んだことがないわけだが、出自は江戸川乱歩が、明るく楽しくモダンな推理小説こそこれからにふさわしいと50年代末に推しまくったからだと知って、ああそうかと思った。さすが眼高手低の人(by 山田風太郎)だ。

猟奇的な推理小説や本格は時代を超えやすいのだ。だから高木彬光や横溝正史は読んだことがある。

が、明るく楽しくモダンな推理小説は、おれの時代では仁木悦子ではなく、小峰元だし赤川次郎だったわけだ。だからそれほど推理小説に興味を持たないおれは仁木悦子まで遡る必要がなく、それで読んでいないのだった。

が、一部展示されている作品(既に忘れたが多分、林の家という作品のような)のプロットのノートや、どう文章が構成されているかの分析を読むと、実におもしろそうではないか。というかおもしろいのは間違いがないわけだから(江戸川乱歩の眼力は疑いようがない)、そのうち読むだろう。

(P[に]2-3)林の中の家 仁木兄妹の事件簿 (ポプラ文庫ピュアフル)(仁木悦子)

(が、林の家はKindle版にはなっていない)

で、ムットーニだが、カヴァレリア・ルスティカーナとブラッドベリーの組み合わせは良いとして(これがトリの作品)、特に最初のものは読まれる文章の退屈さと動作の緩慢さがあって気持ちの良いひと時になってしまったが、待て、おれが裕福だったら寝室に30個くらい展示して毎日日替わりで楽しむのにふさわしい作品ではないかと思った。ゴルトベルクとチェンバロを用意するよりも良い。

_ 文学館と美術館

世田谷の公共施設とだけ覚えていたので間違って美術館へ行くところだったのだが(事前に駐車場情報を調べて気づいた)、なぜ美術館ではなく文学館なんだろう? と不思議に思った(仁木悦子とか見られたので文学館で全然良かったのだが、疑問は疑問)。


2019-08-20

_ 折りたたみ北京読了

通勤中にちまちま読んでいた折りたたみ北京読了。

最後の劉慈欣の2作は圧倒的なので家帰ってそのまま読んでしまった。

作品としての良さとは別に、小説としておもしろさ(文体とか構成力ということだろう)がとにかく抜群で感心しまくった。

三体(劉 慈欣/大森 望/光吉 さくら/ワン チャイ/立原 透耶)

なるほど、三体がばか売れしていると聞くが(というか、おれも買ったけどまだ読んでない)、そりゃそうだろう。小説としてのおもしろさは天下一品だ。

序文がケン・リュウという編者のもので、最初に思弁的小説の短篇集だと書いてあったり、劉慈欣の作者紹介のページにハードSFと書いてあったりして、おれが70年代あたりに筒井康隆のSF図鑑だかSF入門だかで読んだ頃の用語と全然違って戸惑った。

どうも思弁的小説をもしXな世界ならYだろうという普通のSF設定小説のことを、ハードSFは本格SF(正統SF)のことを今では呼ぶらしい。特に引っかかったのはハードSFで、おれの知識だと石原藤夫や重力の挑戦のような、ある世界がXであるならば、そこでの物理的な制約や生物学的制約はYであり、したがってそこではZでなければならない、というような合理性に基づいた設定を重視するSFというものなのだが、単にガチなSF(ハードロックのハードと同じだ)という意味らしい。わざわざガチなSFをハードSFと呼ぶということは、そうでない、つまり思弁的小説が主流となったからだろう。だから、かっての主流をわざわざハードと形容する必要が出てきたのだろう。火星の人あたりはそういう意味でハードSFってことになるのかな。

というようなことを考えながら読むので、中国SFかどうかは念頭からきれいに消えてしまっていて、今、作者名を書こうとして漢字を拾うのが大変だという程度のことになってしまっている。というか、中国というジャンル意味ないな。

おそらく訳業は立派なものなのだと思うが(日本語としていずれもこなれている)、そこは良くわからないので、読んだものがすべて作者のものとする。

最初に陳楸帆という人の作品が3作。

鼠年: ちょっと下放っぽい状況の人間ドラマ。普通におもしろい。

麗江の魚: 時間SFなのだが設定がおもしろい。鼠年もそうだがミステリを入れ込むのがうまい作家だと思った。

沙嘴の花: とても美しい作品だ。深圳を舞台にして、貧困地域から脱出した男がテクノロジーを使って女性を救おうとするが、人間の心理は複雑なので破滅するというような(ある意味よくある)話なのだが、イメージが実に美しい。傑作。

夏笳の作品が3作。

百鬼夜行街: おれは、これを元にしたかインスパイアされたか、それとも同世代の意図せぬ意識共有か何かの似たような映画を観た記憶がある。瓦礫の中に残った一軒の家のイメージだ。短編映画集の中に入っていた。

百鬼夜行街という捨てられたロボットの遊園地のような場所でロボットたちに育てられている捨て子の子供が、高度なロボットなのか人間なのかアイデンティティが揺れ動くままにカタストロフが到来するという抜群な小説ですごかった。

童童の夏: この題名のフリガナがトントンだったので侯孝賢の映画を想像したら全然違い過ぎてなんのもじりでもないのかと思ったら侯孝賢のはトントンはトントンでも冬冬の夏休みだったというのは全然関係ない。

すごくうまくできていて、医師だった祖父が倒れてリモート制御のロボット介護を受けるようになるのだが、この祖父、根が革命家(それまでの在り方をがらりと変える人という意味で使っているようなのに、主人公には良くわからない言葉という設定になっているのが興味深い)なだけにリモート制御ロボットの制御側に革命をもたらすという、なんか読んでいてえらく勇気付けられるような不思議なポジティブな作品。おもしろかった。

龍馬夜行: 人類滅亡後に動き出したロボットがコウモリと旅をするというとてつもなく叙情的な作品。悪くない。百鬼夜行街に通じる美学を感じるが、童童の夏とはまったく異なる作風で、この作家はうまいなと思った。

馬伯庸という人の作品は1つ。だが、折りたたみ北京の中では、抜群な小説である劉慈欣の作品を含めても、おれにはこの人の沈黙都市が最もSFだった。

沈黙都市: 1984年を現代のテクノロジーで再構成した作品なのだが、これは本当におもしろくこわかった。

1984年のニュースピークではなく、ネットワーク上で利用可能な言葉を制限することで人々の思考を制約する体制というのがアイディアの肝なのだが、おれには、これは行きつくべきグーグルの世界にしか読めない。

つまりグーグルIMEだ。このひどい仮名漢字変換機は、おれが使いたい言葉がまったく出てこず、常に意味が薄い言葉を使うように誘導する。

検索会社の肝は、検索した情報に最も合致したものを提示することにある。現在のところは、ディープラーニングを使ってそれっぽい分類でやっているようだが、限界は誰でもわかるから、結局は意味の解析をする必要がある。

意味の解析をする側にとって望ましいのは、ある文章の意味が一意であることだ。その場合、反語表現やあてこすりはノイズだし、造語や合成語はバグだし、文法崩しは敵対行為だ。

あるとき唐突にMSのKBの自動翻訳がまともになった。とはいえやはり意味が通じないので原語のページを見ると、実に読みやすい。自動翻訳にマッチした英語の書き方をするようにしたのだろう。

グーグルがIMEやChromeのtextareaやGoogle Docsでやりたいことは、基本語300と定型文法にマッチした浅い(1段階の)意味の繋がりしか持たない文章しか作らない人間を養成することに違いない(という設定が形成される)。

その世界が沈黙世界だ。

当然の結末を迎えるが、実にグーグルだった。

残りはそのうち。

折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)(ケン リュウ/中原 尚哉・他)


2019-08-21

_ 折りたたみ北京読了(続き)

郝景芳

見えない惑星: いろいろな惑星の話をする恋人たち。どの惑星も住人と歴史つまり意識と世界が微妙に噛み合わない。さわさわと進むが最も思弁的小説っぽい。

折りたたみ北京: 表題作だが、とにかく題名がすばらしくイマジネイティブだ。インセプションの夢から夢へ移動するところか? という感じだがもっとメカニカルだった。3つの階層が同一都市にお互い混じり合うことなく交代で生活するという構造が抜群だった。

物語はちょっとディック風だ。最下層の人間がふとした機会から最上層の世界へ潜り込み冒険しそこの人々と交流し、そしてまた元の世界に戻る。その意味ではどうということはない作品とも言えるのだが、とってつけたような(しかしそれ抜きでは物語が成立しない)家族関係がすごく良い味となっていた。

糖匪

作者の名前が不穏だ。作品名がコールガールだし読み始めると普通に日本では知らないけどクリスティアーネFとかアメリカの映画とかで良く知っている男の車に乗る娼婦の話っぽいが、額面通りに受け取って犬を売る少女の話として考えた方がおもしろい。

原題は黄色故事だから、艶っぽい物語で、わかりやすくコールガールとしたのだろうが(英語訳の題がそうなのだ)、主人公は世界皇帝なのかも知れないし、どうとでも読めるし、どうとでも読めるような書き方をするという技法なのだろう。ちょっと感傷的過ぎる気はしたが、悪くなかった。

程婧波

蛍火の墓:これは普通に傑作だと思った。ちょっとアーシュラ・K・ル・グィンを思わせなくもない、歴史とそれを統べようとする女王の物語と言えなくもない。良い作品だった。

劉慈欣

円:すごい傑作。秦の始皇帝が始皇帝として即位するまえの政だった時代の荊軻の暗殺失敗の故事と徐福に日本へ不老不死の薬を取りに行かせた故事を合成して全然違う歴史物語を作っている。

始皇帝暗殺 [DVD]

とにかく気宇壮大で、300万人(都民の1/3だ)の秦兵が壮麗な陣列を組む光景を想像するだけで胸熱だ。チェンカイコー(大閲兵や人生は琴の糸を想像するわけだがそれでもたかだか数100人)か角川春樹(当然天と地をを想像するわけだが、こちらもたかだか数100人だろう)に300万人を与えて映像化したらどれだけ素晴らしいものが観られるだろう。

Eテレの大科学実験で音速を調べるというのがあって、オペラ歌手の前に人間を1列に延々と並べて、声が聞こえたら手旗を上げるというのを望遠で撮影したのがあった。

たかだか86人、1.7kmでも手旗が順に上がっていく様の抜群のおもしろさ、それを300万人で行うようなものだ。すげぇ。死ぬ前に一度はこの目で見てみたい。

神様の介護係: こちらも普通にしかし抜群におもしろい。とにかくストーリーテリングの腕前は圧倒的な作家だ。

地球に生命をもたらした神様が、自分たちにとってはブラックボックスと化した製造物の老朽化を前に地球人に世話を求めにやってくる。最初は歓待した地球人たちで、1世帯あたり1人の神の世話を全世界で行うことにする。ここ、中国の田舎町でも当然のようにそれが行われる、のだが、段々地球人たちは役に立たない神たちに腹が立ってくる。主人公の気の弱い男だけは神を大切にしようとするのだが、妻も父親も子供も家族全員が神を虐待する。ついに、主人公は神と一緒に家出をしようとする。

父親が、「おれたちを置いて出て行くだと? 育てた恩を忘れたか?」と言うと、初めて言い返す。「父さん、育てた恩を忘れて神を追い出すあんたがそれを言うか?」

ただ、最後にSFっぽい終わらせ方をしようとあれこれどうでも良い設定を出しまくっておもしろさを台無しにしてしまった感はある。が、抜群におもしろいことに変わりはない。

実に良い読書体験をした。

折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)(ケン リュウ/中原 尚哉・他)


2019-08-24

_ ライオンキング

2D版字幕版を観に豊洲。

しかしなんだろうね? 技術の無駄使いのような、というかそもそもこれなんなんだろう? アラジンはまだわかるとして、出てくるのが相当本物そっくりの動物で息遣いやら毛並みのさわさわまで再現してあるのだが、げてものと言えなくもない。

いや、これこそ映画なのかも。驚異的な見世物という点でメリエス的だ。

その意味でいちばんおもしろくて印象的なのは唐突なガラゴのアップだった。

かばんうりのガラゴ(島田 ゆか)

絶対にこれを見せたかったに違いない。

アニメとの違いはいくつかあって、時間的にも動作的にも無理があることはやらないので、「そんな鬣見たことない」とザズーが歌うと葉っぱで鬣を作って見せるようなところはないし、スカーの岩穴にザズーが骨で作った牢屋に閉じ込められていて、そこにティモンが逃げ込むシーンもない。あまりにもマンガだし。

しかし、マンガでしかないのにちゃんと(ではないが再現してあるものがある)。ラフィキの杖だ。冒頭であってもシンバを探しに行く旅(というか教え諭すところ)でも杖は持たない(杖持ったマントヒヒではマンガだ)のだが、最後の最後、シンバの加勢に行くところでは「古き友よ」と言いながら杖を取り出して棒術を使ってハイエナをなぎ倒す。子供が「古き友」の「古き」ってアニメ版の意味なのかと感心していたが、まあうまいダブルミーニングだし、確かに素手でマントヒヒがハイエナと闘うのは無理がある(投石くらいはできそうだが)ので、まありかな、というか観ていて不自然さを感じないのはもう完全にライオンキングの世界の中で観ているからだろう。おもしろい。

ラフィキがからむシーンでは他にも、シンバの抜け毛(アニメ版では単に匂っただけのような)の長いシーケンスが映画的におもしろい。

自分のことでおもしろかったのは、フンバが星空についてわりと正確なことを言ってティモンにガスの話が好きだとからかわれるシーンで、先日吹替をテレビで観たときはガスの意味がガスだけに抜けてしまったのが、字幕では意味がちゃんとわかることだ。本当におれの耳は音は追えるのに意味を追えないのだな。

スカーの用意せよはアニメよりもさらにかっこよい。

サークル・オブ・ライフ(RIRI)

字幕版だけに観客も国際色豊かだったが、一番印象的なのはハクナ・マタタに合わせて立ち上がって踊り出した前の席の子供だった。立ち上がっても椅子の背の高さしかないからまったく鑑賞の妨げにはならないのだが、スクリーンよりもそっちのほうがよほどおもしろいのでどうしてもそちらを観てしまうから、その意味では鑑賞の妨げと言えなくもない。


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ジェズイットを見習え