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日々の破片

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2005-06-05

_ オペレッタ狸御殿見てきた

すげーおもしろかった。今まで見たことのある鈴木清順の映画の中でも最高のできじゃなかろうか。とにかく、一瞬たりとも退屈を覚えなかったってのは、この10年くらいに見たどんな映画(そう言えばクリントイーストウッドの臓器移植のやつとかくらいかな、全然退屈しなかったってのは。何かしら気が抜けることろがあるもんだし)よりもすごい。その意味じゃ、ロシュフォールの恋人くらい好きかも。もちろんピストルオペラとかこれにくらべれば屁みたいなものだし、ツィゴイヌルワイゼンなんてしみったれただけの静的映画だ。カポネ大いに泣くはすごく好きな映画だが、それよりももっと好きだ(多分にオペレッタといっても映画なんだからミュージカルだよね、だからだと言えそうだ)し、ひとつ喧嘩は逃げる足よりも、どうせさすらい独り身のよりも、もっと好きだ。うん、実に好きな映画だ。

とは言うものの、例によって木村威夫との爺さんコンビのスカスカ映画なのだが。いざとなればピンクっぽい照明だけの何も無い空間(確か、東京流れ者の最後のほうの決闘シーンはこんな感じだったような)で、すかすかしてたりするし。しかも、ここぞというところで決め構図(ポーズと音が同じだな)では、役者がへたれているからふらついてたりもするし。

にも関わらず、映画だよ、映画。

最初、どうしてこうもスカスカしてるのかと思ったけど、不自然な背景のロングで5人くらいが全身で映ってるからだな。バストショットが出てくるのは(記憶してる限りでは)後半になってからじゃなかろうか。顔のクローズアップの時には下からのライティングで、ああ、映画だ、とこれまた映画だよな、とつくづく納得させられるわけだし。

特にああっと素晴らしかったのは由紀さおりが、薬師丸ひろ子とのじゃんけん勝負に負けて自ら糸にくるまって天高く舞い上がったところで、今度生まれても100歳くらいのなんちゃらばばあになりたいなと唄うところ。すげえいい歌を、すげえいい声で唄うもんで、思わず感動のあまり泣きそうになるくらい堪能できたよ。やっぱり唄が出ない映画は映画じゃないよなぁ、と思う間もなくこれはオペレッタと銘打ってるんだから唄があるのはあたりまえなんだが。

あと、ソーダ、メロン、レモンとカタカナで色をつけるきれいなデュエットをオダギリジョーと名前知らない中国か台湾か香港の女優が唄うとこもいい感じ。でも、映画としては後半の下からのライティング(でもバックは違うけど)で印影くっきりさせてたところとか。

なんで、唐の狸が姫なのか? とオダギリジョーがパパイヤ鈴木に訊くと、人には人にしかわからない理由があるように、狸には狸にしかわからない理由があると答えるシナリオも嫌いじゃない。

極楽カエルのばかばかしいほどの人形っぷりと、思いもかけぬ甲高い声とか。

暑かったり寒かったりするかえらずの山の玄妙さの表現とか。木村威夫ってどうしてこうもいい加減な仕事をするんだろうかとくらくらしてくるようだ。

結局、映画というのは、唄と踊りとライトと色と構図だということを再確認できたということだろうか。それにしても、これっぽっちも感動は(由紀さおりの最期の唄を除き)しないわけだが(感動するにはさすがに物語か、重厚なある種のハーモニーが必要なようだ)、驚くほど刺激に溢れていて、実に楽しかった。それにしてもいい仕事してるな、びっくりした。

オペレッタ狸御殿 プレミアム・エディション [DVD]

_ 恐るべき旅路

なんて題なので、コーネルウールリッチかな、とか思いながら読んでみる。まあ、確かにコーネルウールリッチが出てくることはないわけだが。

失敗した人を罵るのは割と簡単だし、多分、ウケも取れる。でもそうではなく、

計画にかかわった人々への尊敬の念と、失敗をくりかえさないためにできることを今やろうという、著者の思いは十分伝わるとおもう。

という書き方をすることもできる。し、そう読み取れる人が確かにいる。それにしても、Amazonで見るとちゃんと売れているようだ。で、僕も買うことにする。

それにしても、とつくづく思うのだが、やはりBlogというのは良いものだ。少なくても僕は、Moleskinさんと高岡さんという2人の良き書評家(書き手がどう考えているかはともかく僕にとっては、ということだ。いずれにしろ面識のない人間である以上、機能的な繋がりになることは避けられないわけだ)を得ることができわけだから(もちろんそれだけではないのだが)。ここですごいのは、(悪意がある場合に利用される言葉だと思うが、それは無視して)ウォッチできるからどんな本を読んで、それに対して何を語っているかを現在形でかつ時系列に沿って読めるってことだ。それによって、先に「機能的」なつきあい(日記を読むってのは一方的ではあるがつきあいには違いあるまい)と書いたが、それに留まらないもの――共感――が生じるわけで、「こいつが誉めるんだから、おれにも向いているに違いない」という友達の意見みたいな受け止め方が可能になることだろう。まあ、その共感の一線を超えると相当気持ちが悪い(ウールリッチ的な世界であるな)ことになるわけでもあるから、諸刃の剣でもあるが(何しろ不特定多数に開かれてるわけだし)。

この時感じるのは、随分遠くまで行けるだろうな、という感覚だ。

以前、誰か、確かマルセルシュオッブについてじゃなかったかな、あるいはアルカンか、死ぬほど死ぬまで本に埋もれ本を読む人のことを読んでいて思ったものだ。あるいは中国の正史は牛車に5台、何者もそれすべて読むに能わず、とか。しかし、歴史は続く。リレーのようだ。誰かが牛車に1台読んでそれを掻い摘んでくれれば、次の人は2台目から読めば良い。そうでなければ、歴史によって蓄積された澱に押し潰されてしまう。最期、書棚が崩れてきて本に押しつぶされて死んだアルカンのように。

だから実際のところ、共感を覚える人が読んだ本は読む必要はなく、信頼できそうな人が手がけていることはする必要がない。にも関わらず読みたくなり思わず手にしてしまうのは、ある意味不思議なことでもある。だが、考えてみれば追体験なしに信用することはできないのだがから、自明のことなのかも知れない。つまるところ、最後に決めるのは自分だ。5個のうち1個を追体験し、確認しながら、あまり興味を持てない4個は任せる。そんな感じで歴史は進む。


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