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新国立劇場で新演出のヴォツェック。指揮は大野。やはり美しいところの美しさはうまいものだ。
本来はヨハネスマイヤーがヴォツェックだったが体調不良で駒田敏章に交代。が、わりと端正な顔に小柄(少なくとも医者の妻屋や鼓手長のダザックに比べると貧相と言っても良い)なところが、ヴォツェックのイメージにとても近いので、歌唱力というかシュプレッヒシュティンメ力合わせて、むしろ良かったかも知れない。
今回プログラムを読んでいて初めて知ったが、ヴォツェックは大ヒットして再演に次ぐ再演、ただでさえ大金持ちのベルクはさらに儲けたらしい。
さすがにこれは疑問に感じる。いくら退廃的大好きウィーンの人々であっても、ここまで陰鬱で不協的なオペラを喜んで観まくるものだろうか?
貧乏な床屋が徴兵されて軍隊の上官からは虐待され、小金を稼ぐためにおかしな医者の異常な精神療法の被験者となり(演出では、極端な偏食指導をくそまじめに受けている様子をこれでもかとしつこく描写する)、内縁の妻には浮気され逆上(静かな)して殺して本人も錯乱して溺死、残された子供は木馬で遊ぶ(が、この演出ではヴォツェックと同じ行動を取らされるので、貧困の再生産性が極端に強調されている)。
とすれば、ヒットの原因として考えられるのは、観客の琴線が鳴らされまくったからだろう。
初演は1925年なので、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間、ドイツは社会民主主義時代だが、オーストリーは混乱しまくっていたらしい(ハプスブルク帝国は当然崩壊している)。
ヴォツェックが実は高い知性を持っていることは頻繁に行われる聖書の引用や1幕1場での大尉の難癖に対する論理的な反駁で示される。教養人ではないのは貧困が原因で、おそらく家の唯一の書物である聖書しか手にすることができなかったからで、自由な読書環境があれば優れた教養人となっていたことが想像される。敗戦国となり戦後補償のせいで貧乏となったが、文化は圧倒的に高いオーストリーそのものにも見える。
妻のマリーは名前からして不吉だ。同じくオーストリーでこちらは1920年に初演された死の都のマリーを想起せざるを得ないし、当然それは作中で引用されるマグダラのマリアだろうし、そもそもは聖母のほうのマリアの名前だ。
マリーを奪う鼓手長の髭面(大尉による下品なからかいのネタにもされる)からは、ハンガリーをはじめとするハプスブルク帝国東側の諸国の喪失が暗示されなくもない。
結局のところ第3帝国(大ドイツとすれば当然オーストリーは含まれる)の東側への侵攻と自滅、その後の苦難(ドイツ零年だ)を予兆させる作品であり、それがヒットの理由なのではなかろうか。
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