| 著作一覧 |
映画の泳ぐ人がおもしろかったので、原作を(原文ではないが)読んでみようと、図書館で『巨大なラジオ/泳ぐ人』を借りてきて読んだ。
いやな作品集だ。
映画もそうだったが、特におもしろい作品は途中で現実がスリップしていく。
そのあたりのスリップのうまさは、おれには久生十蘭を思わせる。なんといっても『ハムレット』で福助が出てきて主人公がなんか変だなあと考えているとどんどん現実がスリップするところが印象的なのだが、それに近いものがある。
スリップの行先がろくでもないところなのは泳ぐ人で承知していたが、まあそんなものだ。一言でいえば、繁栄を極めたアメリカ(40~70年代に活躍した作家だそうだが、メインは50年代の黄金期だ)でそれなりに成功した中流上の郊外生活者がスリップして裏側の暗黒面と触れ合ってしまって静かに消えていくという内容がほとんどだ。
『巨大なラジオ』マンハッタンのイーストサイドのいまいちなところに住んでいる仲が良い中年夫婦の専業主婦の妻の楽しみはラジオでクラシックを聴くことなのだが、壊れてしまう。夫は高級なでっかなラジオを買ってくる。が、そのラジオは近隣の人々の会話を拾ってくるのだ。人々の秘密を知るうちに自分たちの虚構も見えて来る。
いやな話だ。
『ああ、夢破れし街よ』
戯曲家としての才能を見出されてマンハッタンに出て来た家族が、プロデューサたちの迷宮巡りをして逃げ出す話。とてもいやな話。
『サットン・プレイス物語』
子供をベビーシッターに預けて夜は遊びに出かける夫婦の物語だが、お祈りの時間が欲しいベビーシッター、子供がかわいい女優、イマジナリーフレンドしかいない子供の組み合わせがいつまでもうまくいくはずもなく子供が消えてしまう。合理主義で突っ走る夫とぐだぐだ泣き言が多い妻。子供は無事保護される。が、全然話が合わない。
いやな話だ。
というわけで、おもしろさは抜群、語り口は巧妙だが、とにかくいやな話なので途中、中断してからまた読みだす。
『トーチソング』マリオンハリソンのトーチソングをバックに男を破滅させる陽気な女性を友人に持つ男の話。最後、友人から少し仲が深まったために死ぬ。
いやな話だ。
『バベルの塔のクランシー』ゲイカップルを差別するエレベータ係の話。最後、彼は相対的なものの見方を学ぶ。それほどいやな話ではなかった。
『治癒』スリップするのだが、子供が熱を出したためにリアルに無事帰還する物語。
『引っ越し日』中流から下流に転落する家族を生暖かく見守るしかないアパートの管理人の物語。いやな話ではないのは、目線が下からの第三者によるからだろう。というか、この作家は細かな心理描写が実にうまい。それだけに、中流上の主人公がスリップする物語はいやな気分になるのだろう。
『シェイディー・ヒルの泥棒』中流から転落して泥棒に成り下がった男が生活のために泥棒をいやいやながらする話。最後就職が決まって中流に返り咲けることが決まったため、手付金で盗んだ家に金を返す。
悪くない。
『林檎の中の虫』本人たちはスリップしないが、そのためにぎりぎりな綱渡りをしているスリル満点な生活を幸福に送る夫婦の話。これはいやな話だぞ。
『カントリー・ハズバンド』何不自由なく暮らしている中流夫が逆にそのためにスリップし始めるがぎりぎりのところでリアルを失わずに済む話。
というか、作風が変わって来たような感じがするのは、作家本人がそれなりに稼げるようになって、生活が安定したからなのかも知れない(解説を読むと最初はえらく貧乏だったらしい)。
『深紅の引っ越しトラック』異常で場違いな人間が隣家に引っ越してくる。ここは中流上の家庭が集まった町なので、場違いは困る。が、主人公は影響を受けてしまう。こちらが虚飾なのだと気づいてしまったのだ。かくして彼らも深紅の引っ越しトラックで引っ越すことになる。
いやな話だが、洒脱さが板についたのか、気分は悪くはならない。
『再会』別れた父親と会ったら、奇天烈なやつだった。もう二度と会わない。
悪くない。
『愛の幾何学』スリップしそうになったのですべてを数学的に考えることでしのごうとする男の話。当然死ぬ。
『泳ぐ人』映画では力が入っているのはベビーシッターと空のプールの子供の家だが、小説では高速道路の横断が一番の山場となっている。というか、尺を映画にするために膨らませているが、原作に忠実な映画化だったのだなと感心した。当然いやな話だが、抽象度が上がっているため抜群におもしろい。とはいえいやな話ではある。
『林檎の世界』イタリアで暮らすヴァーモント出身の詩人の物語。多数の作品を出しているのだが、彼にサインをねだる人たちは一番有名な本を持ってくる。途中で性的妄執に捉われるのだが(似たようなトリガーをひく『カントリー・ハズバンド』よりも小説的におもしろい)父親を思い出したことによって我と創作心を取り戻す。これはおもしろかった。上手い作品。
『パーシー』失敗した画家の叔母さんの話。なのだが、この作品はとても複眼的でおもしろい。
『四番目の警報』時代にも妻にも取り残された男が、自分は取り残されていると自覚することで自由になる話。
『ぼくの弟』いやなやつの話。わかりあえないってことはわかりあえないってことなんだという話でもあり(この作品は書かれた時代的には前半に属する)要はスリップするのは複眼を得ることだと考えると、この作家のモチーフは一貫しているのだなと思う。いやなやつの話なので当然いやな作品なのだがおもしろい。
新国立劇場の中劇場でスリーキングダムス。
鞄に詰められた生首をイギリスの刑事が追っていくと生きたままノコギリ引きされたとか、異様な犯罪の姿が立ち現れる。この刑事の上司が絵に書いたような冤罪発生装置で気分悪い。それはそれとして首切断のビデオが手に入ると主人公はやたらとそれを見続ける。
犯人をさらに追ってハンブルクへ行くと現地のやたらと調子が良い刑事が相手をしてくれる。上司はドイツ語がまったくわからないので主人公の刑事がやり取りする。彼はドイツの大学に留学していたことがありドイツ語は普通に話せるのであった。上司とドイツ警察と主人公のやりとりは完全にコメディとなっていて実に愉快だ。が、主人公の動きは怪しくなってくる。
さらに舞台はエストニアに移り、4人のゴッドファーザーに被れていると説明される半グレ集団みたいなものが出て来る。この4人のやり取りは楽しい。
最後犯人はドイツ警察の手によって捕まり主人公はイギリスへ帰る。
が、この作品の主眼は全然犯罪捜査ではなく(事実、犯人はするすると各国警察のお膳立てに乗って捕まえることができる)、主人公が忘れていたかあるいは隠し持っていた心の闇を再発見する旅というものだった。したがって最後のあたりでは、どこまでが実際に起こったことなのか判別はできなくされている。
一見普通の犯罪ドラマのイギリス編、コメディのドイツ編、ギャング物のエストニア編と、観ていて飽きさせない構成になっているし、実際おもしろかった。が、事実と悪夢の混成部はちょっと退屈した。これは我ながら不思議だった。
新国立劇場で新演出のヴォツェック。指揮は大野。やはり美しいところの美しさはうまいものだ。
本来はヨハネスマイヤーがヴォツェックだったが体調不良で駒田敏章に交代。が、わりと端正な顔に小柄(少なくとも医者の妻屋や鼓手長のダザックに比べると貧相と言っても良い)なところが、ヴォツェックのイメージにとても近いので、歌唱力というかシュプレッヒシュティンメ力合わせて、むしろ良かったかも知れない。
今回プログラムを読んでいて初めて知ったが、ヴォツェックは大ヒットして再演に次ぐ再演、ただでさえ大金持ちのベルクはさらに儲けたらしい。
さすがにこれは疑問に感じる。いくら退廃的大好きウィーンの人々であっても、ここまで陰鬱で不協的なオペラを喜んで観まくるものだろうか?
貧乏な床屋が徴兵されて軍隊の上官からは虐待され、小金を稼ぐためにおかしな医者の異常な精神療法の被験者となり(演出では、極端な偏食指導をくそまじめに受けている様子をこれでもかとしつこく描写する)、内縁の妻には浮気され逆上(静かな)して殺して本人も錯乱して溺死、残された子供は木馬で遊ぶ(が、この演出ではヴォツェックと同じ行動を取らされるので、貧困の再生産性が極端に強調されている)。
とすれば、ヒットの原因として考えられるのは、観客の琴線が鳴らされまくったからだろう。
初演は1925年なので、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間、ドイツは社会民主主義時代だが、オーストリーは混乱しまくっていたらしい(ハプスブルク帝国は当然崩壊している)。
ヴォツェックが実は高い知性を持っていることは頻繁に行われる聖書の引用や1幕1場での大尉の難癖に対する論理的な反駁で示される。教養人ではないのは貧困が原因で、おそらく家の唯一の書物である聖書しか手にすることができなかったからで、自由な読書環境があれば優れた教養人となっていたことが想像される。敗戦国となり戦後補償のせいで貧乏となったが、文化は圧倒的に高いオーストリーそのものにも見える。
妻のマリーは名前からして不吉だ。同じくオーストリーでこちらは1920年に初演された死の都のマリーを想起せざるを得ないし、当然それは作中で引用されるマグダラのマリアだろうし、そもそもは聖母のほうのマリアの名前だ。
マリーを奪う鼓手長の髭面(大尉による下品なからかいのネタにもされる)からは、ハンガリーをはじめとするハプスブルク帝国東側の諸国の喪失が暗示されなくもない。
結局のところ第3帝国(大ドイツとすれば当然オーストリーは含まれる)の東側への侵攻と自滅、その後の苦難(ドイツ零年だ)を予兆させる作品であり、それがヒットの理由なのではなかろうか。
妻が、アメリカンニューシネマの傑作らしいけど観たことも聞いたこともないというし、おれも全然知らなかったので「泳ぐひと」を100円払って一緒に観た。
自分探しのロードムービー(ただし徒歩+泳ぎ)という枠組みからは確かにアメリカンニューシネマだった。
が、それ以上にカルト作品としか言い様がない。
時制は飛びまくるし(一応、徐々に現在に近づいているようには見えるが、そうは言っても入れ子になりまくる)会話に刻々変わる状況が織り込まれる(途中の映像にも無いわけではない)が、わかりやすくはない(というか、わからん点も結構ある)。
何が起きる何を言いだすかまったく予測がつかないので、目が離せないおもしろさだった(とはいえ、20歳の売り出し女優とのシーンは長過ぎてうんざりしたけど)。
物語は、友人宅のプールサイドで世間話をしているバートランカスターがふと思い立って、友人の家から家がある丘の上まで順にプールがある家(当然知人の家ということになる)を順にプールを泳ぎながら帰るという冒険?に挑戦するところから始まる。
最初は順調なのだが、段々と歓迎されない雰囲気が出て来る。若い頃の友人の家では母親が息子が苦しんでいるときには足も向けなかったくせに(どうも死んだらしい)と怒る。娘のベビーシッターをしていた女性の家まで来ると、明らかに物語の位相がずれてくる。それまで若々しい肉体を誇っていたバートランカスターの頭の分け目を大写しにして、ハゲかけていることをこれでもかと映し出す。調子にのって足まで挫いてしまう。
しかも話が、かってベビーシッターとして雇っていた頃に、彼に恋していた女性という最初の設定が、現在ベビーシッターをしている少女に変化し(彼の娘も子供として語られる)、最後には年老いて魅力を失った自分に幻滅して逃げ出す女性に変わる。
道は落ち葉で埋まっていて、彼はキノコを踏む。秋になった。
さらに、彼が失業しているという話をしている家、彼の妻が家財道具を処分しているという家、そして高速道路をどたばたと横断しようとしてはできないという壁にぶつかる。どうにか高速道路を超えて市民プールに来ると、彼に金を貸しているがそれまでのいろいろないきさつから強く言えない人やガツンと言ってやりなさいよのおばさんとかまで出て来る。混みあった市民プールを無理やり泳ぐ姿は物悲しい。
雨が降り出し寒さに震えながら家につくと、庭は荒れ果てている。冒頭で娘たちが楽しくテニスをしているはずのテニスコートのネットは破れているし、まったく人気はない。その娘たちは市民プールでの話では警察の厄介になっているらしいし、実際玄関を叩いても誰も出て来ない。破れたガラス窓からカメラが室内に入り込むとガラクタが積み上げてある。まるでそれを踏み台にして首を吊ったか、その中に拳銃で頭を撃って倒れこんだかのように見える。カメラが戸外に戻ると、彼はまだ玄関を叩いている。
ちょっとおれの知っているアメリカンニューシネマとは毛色が違い過ぎる。まず、まったくリアリズムではない。だが、アメリカの暗さを描くという点では確かにアメリカンニューシネマということにはなるのだろう。
バート・ランカスターってアパッチ的な肉体俳優かと思うと、フィールド・オブ・ドリームスのムーンバット先生がそうだが、若手のわけわからん作品に平然と出てきて抜群の存在感を示すとても変わった役者だなぁ。しかも、ハゲにしてもたるんだ腹(最初に泳いでいるときとは全然違うが、寒さで肩をすぼめて前かがみになることで、うまく体をたるませている)にしても、あまり二枚目アクション俳優が喜んでやる役とは思えないが、自分で出資しているわけだし、芸風の広さは驚くべきものがある。
[Unit] Description=tDiay-server After=syslog.target network.target nginx.service [Service] Type=simple WorkingDirectory=/home/ubuntu/public_html/diary ExecStart=/usr/local/bin/bundle exec bin/tdiary server User=ubuntu # 実際はdebianなので違うけど Group=ubuntu UMask=0002 RestartSec=10 Restart=on-failure StandardOutput=journal StandardError=journal SyslogIdentifier=tdiary [Install] WantedBy=multi-user.targetをtdiary.serviceとして
sudo cp tdiary.service /etc/systemd/system sudo systemctl daemon-reload sudo systemctl enable tdiary.service sudo systemctl start tdiary.serviceログを見るには
sudo journalctl -xeu tdiary.service
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