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ミカドがどうしたとか以前読んだときは別段感心もしなかったが、どうやら大した論客らしい。
おそらく、大宅壮一のエピゴーネンなんだろうから、そんなに凄腕なら、今度は反対派の立場にたってやってもらえばいいんじゃないかなぁ。ジャーナリストであるならば、いかなる立場にたっても論説をぶてるはずだ。というか、それができてこそのプロフェッショナルなジャーナリストなわけだし。
すさまじくおもしろそうな題材、見事な着眼点、それなりの取材(と思える)、にもかかわらず、読んでいて退屈で死にたくなるほど凡庸な作品。技術だけというのは、こういうことなのかなという意味ですごく参考にはなる。っていうか、結局重要なのはソウルなのかも、とかいう方向に考えさせられてしまうという意味では傑作かな。
おれ、この言い回し好きなんだが、大正は遠くになりにけりだよなぁ。
(大正〜昭和モダン時代には、「脱帽」の意味で「こいつはシャッポだ(あるいは、シャポウだ)」と表現することが広く、浅草界隈では使われた。
と思ってグーグルで検索しても出てこない。
「これにはシャッポだ」だった。
そこで疑問なのだが、もし大正〜昭和モダン時代の文化人たちがヨーロッパよりもアメリカ(イギリス含む)を向いていたら、「こいつはキャップだ」とか「これにはハットだ」とか書いたり言ったりしただろうか? いわねぇよ。本当に英語ってのはばばっちい言葉だよな。
と書いて、「ばばっちい」の「ばば」って、ババ(東京では使わないが大便のことを指す言葉だということは知っている)なのかな。きっとそうだ。ってことは、ばばという言葉を東京では使わないが、ばばっちいという言葉は東京でも使うから(ここ数十年で田舎から来た人たちのことは知らんが)へんなとこで組み込まれたのだな。おもしれぇ。
で、思い出したが、スパゲッティ=壁の穴(== アルデンテの麺を出さない)という公式があって、それに対してパスタ=イタ飯屋(==まともな麺料理を出す)というのが80年代後半には定着してたよ。
したがって、その時点の感覚で、イタリアの麺料理を食いに行くことを「スパゲッティ食いに行く」=70年代の感覚、「パスタ食いに行く」=80年代の感覚ってのが、確かにあった。
その感覚が、どこかで短絡したのか、あるいは上の飯屋のカテゴリを指しているのに、食い物そのものと読み間違えているのか、どちらかだと思うな。
似たようなのに、カレーとカリーってのもあったような気がする(が、今ではインドを食いに行く(いわゆるカレーは食わないし)と表現するのでどうでも良い)。
外国人の親子が会話しているのを小耳に挟んだ(と仮定する)。
「小僧、腹減ったからソバでも食いに行くか。それともウドンにするか? ラーメンでもいいぞ」
「親父、ソバとかウドンとか今は言わないんだ。麺類と言えよこのバカ」
「それじゃあ区別がつかんじゃないか」
「でも本場の日本人は麺類と言うんだ、テレビでそう言っていたんだから間違いないんだ」
というような話なのか? どっちも正しいから単なる使い分けの問題に過ぎないと思うけど。(米の飯じゃなくて)麺類を食いたいと総称でいうときもあるし、細分していうときもあるからなぁ。
ま、おれはスパゲッティーニとスパゲッティは区別しているけどな。
ディ・チェコ No.11 スパゲティーニ 3kg [並行輸入品](-)
む、今気づいたが、アマゾンはスパゲッティのこともスパゲッティーニと表記しているが、これはバカグだな。
(これは実際はスパゲッティ)
B0031NEGH6
(こっちは本当にスパゲッティーニ)
ペンネも好きだよ。
どちらかというと、10割ソバも3割ソバも区別なくソバと呼んでいたら、ある日、トンチンカンなシッタカブーリやシッタカブリーニがやってきて、「ソバと小麦粉を練ったもの」と呼べと言い出したというのに近い? まあ、確かに総称すれば蕎麦掻(すげえ、一発変換した)も仲間に入れられるから、それはそれでOKだと思うが。
ちなみに、おれはシッタカブリーノで妻はシッタカブリーナ、子供はシッタカブリニーナ、お釈迦様はシッタルーダだ。
イタリア万歳!
携帯で飛ばし読みしていたネタってのが元にあったのか、パスタの話。
ってことは、こういう歴史の物語なのだな。以下はおれが自分で食ったり買ったりした記憶からの歴史。食い物屋や食材屋には別の観点があるだろう。
60年代には、スパゲッティ(ウドンを実は含む)とマカロニの2種類しかなく、かつスパゲッティにはミートソースというケチャップと挽肉のソースをかけたやつと、ナポリタンというケチャップとたまねぎの細切り炒めをからめたやつの2種類、マカロニにはホワイトソースを使ったグラタン(オーブンで最後に焼くやつ)しか(一般論、たとえばデパートのレストラン――ってものが今じゃ姿を消したような気がする)世の中では認知されていなかった。学校給食のスパゲッティってのはうどんだったな(うどんにケチャップをまぶせばスパゲッティというロジック)。しかし、オーマイがデューラムセモリナを使うのが本物だと言い出したのは、60年代末の頃だったような記憶がある。で、70年代に続く。(追記:思い出したが、ミートソースはナポリタンより遅れて輸入された。炒め物ものほうが料理が簡単だからだろう。最初にミートソースを食ったのは忘れもしない1969年の夏に、八王子のサマーランドの食堂でのことだが、それより前にはデパートの食堂でもスパゲッティはナポリタンしかなかったような。)
70年代に国内ではトラック輸送による流通革命とか、海外とは1ドル=360円縛りが完全に解消されて、海外に出かけるのも輸入することも普通になって、上で書いたようなことは変だという認識が広まった(というか、ケチャップというマジックワードが出てくることから想像できるように、上の3つの食い物がそもそもアメリカ経由で渡来した食い物)。ヨーロッパとの2回目の出会いである。この頃から、明治屋とか紀ノ国屋とかだとラザニアとかが普通に手に入るようになったはず。この頃になると、スパゲッティ1つとっても山のようなメニューが作れることが理解されるようになって、街にスパゲッティ屋がやってきた(壁の穴とか)。ちょうどソバ屋に行けばキツネもあれば力もあれば、カレーもあるでよ状態。納豆と海苔とか、メンタイコとかの和風ネタスパゲッティも登場してくる。もちろん、ボンゴレビアンコだとか、娼婦風とかも入ってきた。スパゲッティ専門店ではミートソースではなくボローニャ風という呼び方もするようになったのはこの頃から(しかしミートソースという呼び方もまだ根強い)。ブィトーニの進出もこの頃かな。デューラムセモリナは前提となった。しかし、肝心のアルデンテはまだまだ認知されていない状態。おそらくこの時代にアルデンテで出せば、この店じゃ生煮えを食わせようとしたばかやろう茹で直せクレーマーが続出したであろう。また、ハーブはきちんと認知されていないため、ジェノバ風はもう少し待つ必要があったと思う。
で、80年代に(もうちょっと早いと思うけど、おれの認識上)、イタトマ(こいつは広尾かな? 六本木が最初の店かも)とかボエム(こいつは代官山でよいのかな、原宿にもあったはず)とかが、イタ飯を食わせるようになって(ということは客単価1000円程度の店にそういうメニューがやって来たということ)、いよいよパスタという言葉が登場。つまり、メニューの中に、各種スパゲッティ、スパゲッテーニ、ラザーニアとかを集めた「パスタ」というカテゴリが登場した。アルデンテで食うのも普通のこととなった。もし、この頃、アメリカでもヤッピー文化の一端としてパスタ文化が入ったとしたら、アメリカ→日本の流れではなく、イタリア(の食品企業)が積極的に輸出攻勢をかけたと見るべきかも。パスタを尖兵にすれば、オリーブ油(実も)、ハーブ、調味料(ソースとか)、名前忘れたけどベーコンとハムの合いの子のようなやつなども一緒に売れるはずだ。さらに思い出したが、この頃、金がないからディチェコのスパゲッティを山ほど買い込んで、しょっちゅう娼婦風を作っては妻と2人で食っていた。作るのは簡単で材料も安いからね。そしたら、ある日、ジョン・ウォーターズの映画を観ていたら、金がないから毎日スパゲッティのようなセリフが出てきて苦笑したり。
おそらく、このときに、一部の間抜けな連中がパスタというカテゴリをスパゲッティを使った料理と誤認識したのだろう。で、その間抜けが「おっさん=スパゲッティ、若者=パスタ」と無知をさらしたのじゃなかろうか。でも書いて気づいたが、80年代って30年も前の話じゃん。その間に言葉が変質したのかなぁ。
っていうか、そんな誤解をしているやつは見たことないけどな。パスタはカテゴリで、スパゲッティは麺の種類だ。ただし、逆に老人(70以上)で、スパゲッティを総称で使う人は存在するかも知れない(ってのは、60年代においてはイタリア料理=ナポリタンまたはミートソースでほぼ100%だから。マカロニグラタンは手がかかる分だけ家庭料理には進出しなかった)。
しかし、アメリカの食文化輸入のせいで、60年代に新鮮なボンゴレビアンコが食えなかったのはかえすがえすも残念だ(スパゲッティでそういう料理ができるという発想が家庭になかった)。60年代には幕張(船橋かも)あたりに潮干狩りに行って、山のようにアサリを取って来たもんだけどな。もっとイタリアとは仲良くしといてもらいたかったものだ。
新国立劇場で神々の黄昏。オーケストラピットからハープが4本突き出しているのでヴァーグナーと知り。
ジークフリートのときは、ずいぶん声を震わせて歌うなぁ=好きじゃないなと思っていた、ブリュンヒルデの人が素晴らしい好演。
まるまるとしたジークフリートとブリュンヒルデがトレーナー&トレパン姿で「そなたの愛を忘れぬことこそ、それがしがしかと学びしこと」とか対訳付きで歌うのはやはりおもしろい。おれは好きだな。
それはそれとして、今日観ていて、つくづくバランスが悪い劇だと1幕目のヴァルトラウテがブリュンヒルデに面会に来るところで思った。2時間越えるといくら新国立劇場の椅子が他よりもよくても、前の席との空間が取られていても、やはり尻が痛くなってくる。ノルン、岩山の洞窟、ライン下り、ギビッヒの陰謀までは良いのだが、その後も延々と続く(ジークフリートだけは軽いノリで「ではそれがしが、ひとっぱしりかっさらってくるでござる」とか歌うのが表面的にはバカ丸出しでおもしろいのだが)ので1幕目は長すぎる。
それに比べて第3幕は本当に見事で、1時間30分という現在の映画とかでも利用されているきりの良い時間の中に、ライン乙女とジークフリートのかけあい漫才、ギビッヒ族との酒場放談+唄語り、殺人、感動的な死(ここでのジークフリートの世界挨拶の再現というのは思わず涙が出そうなくらい感動的だ)と葬送行進曲(メルクルNHKもえらく良かったけど、今度のオーケストラも実に良かった。見直した)、専業主婦の一人家庭を守る恐怖感と、遺産相続を巡る家族不和、突然悟って歌いまくるブリュンヒルデの自己犠牲、自然に返って良かったねと、実にいろいろな要素を散りばめているし、オーケストレーションは手練の技だし、確かに「もう書くこたないよ」と最後にわざわざメモを残したというだけのことはある。で、これが実に良い演奏。オペラハウスがある国の国民でよかったと感じるわけである。
しかし、結局のところヴォータンの目は、フリッカのために捨てたのか(ラインの黄金ではそんなことを言っていたような記憶がある)、それとも知恵を得るためなのか(ノルンはそう断言しているし)、どうしてハーゲンはジークフリートがラインを下ってくると知っていたのか(この演出では、月間ドイツの英雄という雑誌(だと思う)を読んでいるから、おそらくそれのゴシップ欄にでも出ているのだろうが(ジークフリートもさすがに気づいてハーゲンに「なんでおいらの名前を知ってんだ?」と訊くセリフをワーグナー自身が思わず自己ツッコミ的に入れているわけだし)、雑誌は病院の待合室に置いてあるってことは、グートルーネは少なくとも読んでいそうだし、もしそうなら、ジークフリートが既婚者だということも知っているんじゃなかろうか)とか、ジークフリートと鳥はどういう関係なのかとか(船の中で抱き合っているわけだし)、女と喋るようになったら鳥の声は聞かなくなったとかいろいろ意味深だったり、使い方は知らないうえに指にもはめていなかったのに、なぜジークフリートはニーベルンゲンを支配できているのか(おそらくそのために月間ドイツの英雄に記事が出ている(ニーベルンゲンの取材者がいるのだと推測できる)のだろう)とか、実にいい加減な台本でおもしろい。
ジェズイットを見習え |
_ ムムリク [>今度は反対派の立場にたってやってもらえばいいんじゃないかなぁ 確かに。さっさと副知事を辞めてもらうということで。(..]
_ arton [なんと、今はジャーナリストじゃなくて政務屋なんですか。道理で規制派側に立てるはずですね。(いくら節操がなさそうな男だ..]