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日々の破片

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2014-07-30

_ 銀座で骰子の7の目

会社を休んで資生堂ギャラリーに『たよりない現実、この世界の在りか』を観に行く。

別の事情がからむのだが、にしても、会社を休んで平日の妙な時間に行ったため、僕と妻の2人しかいない空間で、本当にラッキーだった(観客が多い場合の展示がどのようになるのか見当もつかないが、うまくさばくのかも知れないけど)。

おかげで、何十年ぶりか、もしかしたら生まれて初めての、体感する現実のたよりなさを心底味わった。

まさに、今、その場にあるセンスオブワンダーだ。感動という情動的な衝撃ではなく、もっと理性的かつ知的な衝撃だ。おどろくほどの感覚のあやふやさを叩きつけられ、肉体と精神の差を味わう。後になって考えればなぜそう感じたのかが不思議で、その差が実に心地良い。見事だ。

事前の知識がまったく無かったのも幸いだった。あらためて資生堂ギャラリーの告知を見ると、あらかじめそういうものだということを示すコンセプト画が提示されているが、まったく観客には不要なものだ。

ありのままに提示されたものを単純に味わえば良いという意味で、これは本当に優れた作品(インスタレーション)で、胎内巡りのような仕掛けに続く提示されたものを順に観ていく以上の作業を観客に強いることさえない。

風景は記憶を呼び起こす。それをどこまでスライドさせるか。

via: 江渡さんの言及(fbかtwitterか忘れたが、珍しく韜晦を感じさせない評価をされていたので興味を惹かれた)

あまりの資生堂の剛腹なパトロンっぷりに衝撃を受けたので、予定を変えて資生堂パーラーでギフトとか買いまくって帰った。

資生堂パーラー フリュイジュレ

(家用には花椿ビスケットだけど)


2014-07-28

_ 理解と納得のマーニー

子供が観たいなぁというので、家族で思い出のマーニーを観て来た。

おもしろかった。演出がうまい。

YAジャンルということなのだろうけど、原作にどこまで描写されているのかは知らないが、次のように人物を分離して構成してあるのがうまい。

・理解していない(したがって納得する必要もない)→さやか(小学校の中学年くらい)

・理解しているが納得できない(折り合いをうまくつけられない)→アンナ(中学生。算数ではなく数学の教科書を持ち込んでいるから中学生ということがわかる)

・理解しているし納得している(あるいはあきらめることで折り合いをつけている)→それ以外

まあ、文学読んでぐしょぐしょ考える人は大体真ん中にカテゴライズされるから読者に対して提示する主人公としては当然のスタンスだ。

最初に主人公のスタンスを画が(物語上は)うまいということと、それを教師に見せて誉めてもらいたいにも関わらず素直に見て見てとは言えずにぐずぐずためらって機会を逃すというシーンで示す。理解して欲しいスタンスをモノローグの多さでも示す。

唐突に金の話を持ち出すことで、母親(と最初の時点では見ていてこちらは考えているのだが実際は義母)に自分は知っているぞと何か(この時点ではわからない)ほのめかすシーンで示す。

青い妙な顔つきの列車に乗る。これって南海のガンダム列車の赤くないオリジナルと同じかな?

タヌキの置物が車に乗っている。

親類の家であえて母親のことをおばちゃんと表現することで自分のスタンスをほのめかす。

部屋が気に食わない。他人の生活が匂うからだ(まさに自分の立場を理解しているが納得していないことが示される)。ベランダから外を見ると鳥と小舟を漕ぐまるでミレーの画に出てきそうなひげの人物が見える。このひげの人物は常に第三者の視点を提供するために用意されているということが示される(視線なので口をきかない。ある一点までは)。同じように第三者の視線を与えるものとして趣味の画家のおばさんが後から加わる。

ちかみちの看板がそこら中にあることで、親類のおっさんが最初から用意していることがわかる。大切にされてることが知らされる。

ポストにおばさん(に見える)が二人やって来て、委員長がどうだか話しているのを見かけて隠れる。

親戚のクライアントの立派な屋敷に行く。政治的に上位の立場の住人ということがわかる。

ポストで見かけたおばさんが実は同世代ということが示される。主人公に対して大人なのだ。実は理解も納得もしているということを主人公が書いた短冊の文言を無理やり読むエピソードが示す。主人公は自分のスタンスをアピールしているのだからそれが相手に理解されていることは理解しているのだが、大人ではないので納得していない。したがって、暴言を吐く。もちろん、相手は自分が暴言ドンピシャなことを理解もしているし納得もしているので、相手に対しても同等に振る舞う。でも主人公は納得していないから、和解を拒否する。そこでおばさんっぽい女の子はその拒否に対して怒る(政治的に親を利用して抗議することになるが、それによって親戚の夫婦のスタンスが明確化される。説明が数珠つなぎになっているだけなのだが、そこをうまく絵でつないでいる)。(追記:この一連のシーンは非常に主観的な恐怖描写となっていて、まるで松本次郎のフリージアのようだ(テーマも同じだ)。和解案直前のおばさんっぽい女の子による、主人公の恐怖感そのものに対する本質的な指摘の迫力は、そこに語られていない何かがあった可能性を感じさせるし、そこから、デブの親による抗議の中にはシーンとしては表現されていない主人公の行動が含まれるのは、それが単におばさんっぽい女の子とその母親の政治的な悪意のある大仰さなのか、それとも主人公が実際に取った行動の異常さ(主人公の主観には出現しない)ものなのかを曖昧なものとしている)

フリージア(1) (IKKI COMIX)(松本次郎)

(同様なテーマを扱っている作品がフリージアなのだから、幼児が楽しく観られる映画ということはないなぁ)

物語はまるでヘンリージェームズの心理小説のようにホラーじみてくる。

ここで子供が入ってくることでバランスが変わる。

主人公は許すことで折り合いをつけることを学ぶ。

それまで第三者の視線の提供しかしなかったひげの釣り人と画家が理解度を深めるための説明をする。

この説明によって観ているこちらは完全に理解し孤独やら愛情やらに感動する。一番の山場だ。

ところが、この作品がうまいのは、山場を最後ではなく、途中に置いたところにある。不覚にも目が赤くなったとしてもクールダウンするための時間が十分に取れるようにしてある(主人公と同様なカテゴリーの人なら、たかが映画を観た程度で目やら鼻を赤くした状態で劇場から出てくるのは避けたいものだろう)。

そのためには、主人公が理解していてかつ納得していないのではなく、実は理解すらも完全ではないことにした。まだまだ子供ですな、ということだ。

かつ、合理的な説明がつくようにも心を配る。赤ん坊がどこまで言葉を理解し深いところに記憶できるかどうかは別の話であって、物語としては十分な説明だ。その一方でゴーストストーリーとして納得することも全く問題なく(1人で置き去りにしたことを許してもらったことで成仏できるわけだし)、うまく語られている。

最終的に主人公は自分がどこから来たのかを完全に理解し、現実について納得する。つまり成長した。

したがって、母親が金の話をすると、実はそれは理解していたのだと語る。それは正直な気持ちである。その一方で、マーニーに語った金をもらっていることを許せないという気持ち(つまり納得していない状態)もその時点では正しかった。

納得できて良かったね。現実はまったく変わっていないのだが、心持が変わるだけで世界が微笑みかけてくる。良い終わりかただ。

演出でおもしろかったのは、主人公と踊っている最中のマーニーの顔に表情の変化が一切なく人形のような点だった。主人公は誰かとダンスを踊ったことがなかったのでパートナーの表情がわからないのだ。

理由はわからんが、子供は原書を買っていた。

When Marnie Was There (Essential Modern Classics)(Joan G. Robinson)

原題と邦題は随分と印象が異なる。でもthereは話者の視点からの位置関係を示すこそあど言葉のあそことは異なる概念で、コンテキストを共有する全体との位置関係でも向うとなるはずなので、過去形であることを踏まえると、思い出と訳したのは意味としてはより正しいのかも知れない。

_ クマとウサギ

というわけで、おれが一番美しくかつ感動的なシーンと感じたのは、クマとウサギのぬいぐるみのシーンだ。死期を悟った、ほとんど何も残っていないのに、しかし唯一残った大切なものだけを残していかなければならない心持ちを、静かに表現していて、しかもそこには悔恨がなく真に幸福を感じた時の思い出だけが語られる(でももちろん置き去りにせざるを得ないことに対する悲哀もある)。構図も音も絵もすべてが素晴らしい。

すべては、ここに至るまでを一息に語るための仕掛けだと解すれば、主人公が世をすねまくっているほうが都合が良かったのかも知れない。

かくしてタイトルが生きてくる。語られる存在としてのみ、本当の主人公は存在しているからだ。


2014-07-27

_ 今日の現実歪曲空間

オリーブに水をやりながら、葉っぱを見ていたら、そこに現実歪曲空間があった。

オリーブの葉はきれいなどちらかというと淡い緑で、各枝の先端のほうに平たい形状のものがそれなりに密集していて、風にそよぐ程度でほとんど止まっているのだが、遠目にはほぼ同じように見えるのに、太く丸く、回りをぼろぼろにして蠕動しているやつが食いついている。

顔を近づけて順に眺めていたので、その違和感にくらくらした。なるほど、これがスティーブジョブズの説得力というものか。

良く探したら(といっても歪曲していても現実なので、なかなか難しい)とりあえず他に1か所、現実のほころびを見つけたのでそちらも対処。

多分スズメガの幼虫

ただ、写真を撮るために良く眺めたら、これはこれでかわいい顔だなとか思った(が、びよんびよん派手に暴れるし、なんといってもオリーブが1枝丸坊主になるほどの現実吸引力なのでちょっとしょうがない。

(英国人の目には、長崎だか中国だかの獅子だか龍だかはイモムシに見えるらしい)

Greatest Hits(The Cure)

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ ムムリク [スズメガみたいですね。]

_ arton [そのようですね。]


2014-07-25

_ 最近のおれの考えるWebアプリケーション

Insider.NETの連載が終わった。

ASP.NETによる軽量業務アプリ開発

全部で6回にまとめたが、最後の2回(能書き部分を入れると最後の3回分)が当然(まとめになるわけだし)一番の要点だ。

一昨年あたりから、単発のWebアプリケーション開発を何度かやっていたのだが、やるたびにどんどんシンプルになっていって、結局、余分なことをまったくやらずに、ASPXだけでASP.NETを使ってちゃちゃっと作るのが一番ではないかと考えている。

もちろん前提がいくつもあって、ごく少人数(できれば1人)の開発であるとか、クライアント側にいろいろ制約を付けられるであるとか(あるいは極端に制約があるクライアントである、逆のようだが結局は同じ意味だ)、Windowsモノリシック(RDBがSQL Serverで、.NET Framework 4(3.5で十分)以上を何も考えずに使えて、IISがある)とかで、開発も少人数ならその後のメンテナンスもほとんど手間をかけられないとか、そんなところが重要だったりする。

ASPXの何が良いかというと、スクリプト言語の開発と同じで、何がデプロイされているかは、そのサイトのディレクトリを漁ればわかるということで、何をばかなと思うかも知れないが、一度バイナリーにしてソースと別に管理すると、なぜだか正しくデプロイしたのだろうな? というようなところで引っかかって来ることが稀にあって、障害時にはそれが稀であってもある以上はそういう可能性まで考慮しなければならず、厄介だったりする。(ということまで視野に入れているのだから、ASPXが全部合わせて128ファイルみたいな規模に適用することはあり得ないことになる)

元々、JSPやらASPがくずというのは、1997年前後に周知されたわけだが、その理由は開発者がソフトウェア構成というものに余りにも無頓着だったことと、JSPのコンパイルの遅さ、ASP用のコンポーネントがフリースレッディングモデルだったり、アパートメントスレッディングモデルのくせにスレッド競合を考慮していないものを使ったり、ADOにバグがあったりとか、JDBCが腐っていたりとか、技術そのものよりも、その適用の問題だったわけだ。

で、三層に分けるのがいろいろと都合が良かったので、そこら中が三層で組まれるようになって(ロバストネス分析のバウンダリー、エンティティ、コントロールがMVCパターンのV、M、Cにマッピングされてみたり(Web MVCには、Smalltalkのデザインパターンではなくロバストネス分析が大本にあるんじゃないかなぁという気がする)、それを忠実に再現してStrutsとかが生まれてみたり、ノードのレベルではWebブラウザー-Webアプリケーション-RDBになってみたり)、まあ3つというのは、精霊聖霊と父と子の組み合わせであったり人間が文殊菩薩に近づくための方便だったり、子豚の兄弟だったりきりが良い。

テトラスクロール (1985年)(R.バックミンスター・フラー/芹沢 高志)

(3といえばバックミンスター・フラー)

で、それをいかに半自動的にウィザードを使って構築するかというのが、Visual StudioのASP.NETアプローチになったりするのだが、愕然とするような実装を見たのが2010年頃だ。

iPhone用のWebアプリケーションの実装を検収していたら、ASP.NETにLabelを貼り付けて、そこにビハインドにあるVB.NETのコードで組み立てたStringのインスタンスを流し込んでいる。なんだこりゃ。

いきなりVisual Studioを起動して、Webアプリケーションを開発しようとプロジェクトを選択すればASPXが作られて、ビハインドのコードも作られる。あとはASPXから余分なものを取り外してLabelを張って、ひたすらコードで文字列を組み立ててTextプロパティに設定すれば完了、簡単。そりゃそうだが。

そんな厄介なことするくらいなら、単にASPXで良いじゃないかと思ったが、まずそういうVisual Studioのウィザードの使い方を見たのが引っかかった。特に、その実装というかコードそのものは悪くなかったのが引っかかった点だ。

それとは別にjQueryを使ってクライアント側のコードをいじくっているうちに、JavaScriptの使いやすさに開眼したというのがあった。無茶苦茶記述しやすいじゃん。ああそうか、関数が一級市民なプログラミング言語というのは本来こう記述すべきだったのだな、と得心した。

それから、Visual StudioがEclipseほどではないにしろ、動作が遅くなったというのにも引っかかった。遅さを感じる原因は、ヘルプが出て来ないことにある(途中から少しまともになったが、一時、あまりのヘルプの遅さに本気でVisual Studioを捨てるところまで行った。今でもヘルプ(Microsoft Help Viewer)の起動時の遅さとインデックス検索の遅さは耐え難いのであまり積極的にVisual Studioを使う気にはなれない)。

そうこうするうちに、JavaScriptが実用的な速度で動作するようになり、わりとどこでもHTML5が使えるようになってくると、jQueryのブラウザーの差異吸収の有難味がなくなってきた。document.getElementBy...を$と数ストロークで書けるのは楽だが、jQueryのAPIを覚えるよりもDOMのAPIを覚えるほうが良い(つまりDRYだ)。

Visual Studioのヘルプが遅くて使い物にならないので、.NET FrameworkのコアなクラスとAPI以外は調べる気にもならなくなって(コアなところは普通に覚えてしまうし、C#の言語仕様は仕様書を読むのでどうでも良い)くる。

しかも今やASP.NETのコンパイル(は元々速かったけど)にしてもJSPのコンパイルにしても、考慮する必要がないくらいに高速だ。

JavaScriptがそこそこの速度で動き、DOMのAPIが共通で利用できるようになって、ASP.NETのコンパイルが速くて、C#の記述力が異様に向上した結果(var宣言とラムダ式の導入が大きい。これによってJavaScriptに遜色ない記述力が得られている)、ちょっとしたWebアプリケーションなら、HTMLを1つ、あとはモデル相当のコードをASP.NETに記述してJSONを返すようにして、UIに関連するものはすべてJavaScriptで記述すれば良いじゃないかとなった。あとはRDBとしてSQL Serverを使えれば(容量が収まればExpress Editionで十二分なパフォーマンスが出る)、それだけで十分だ。

連載は無理くり行数を減らすようにコードを固めたところがあって、本来はもう少しファイルを分離したり、統一的に扱えるようにおれさまアドホックAPIを導入したりするところだ。で、そのあたりが4種類くらいのAPIを妙な方法でASPX内に組み込んだりしているのが難点だが、それでも相当まともなASP.NETのWebアプリケーションへの適用方法を示せたと思う。枯れた技術だけを利用して効果を上げるというのは大事なことだろう。

で、おそらく2010年代中半の時代精神というのがあって、向うがどう考えるかは知ったことではないが、以下にあげるものと通底するものがあるとおれは考える。

オブジェクト指向は禁止するべき

(まったく同意しないが、おれの連載でのプログラミングスタイルはまったくオブジェクト指向ではないから(ASP.NET直書きである以上単なるシングルメソッドだ)、結局は同じことのようだ)

フルスクラッチから1日でCMSを作る シェルスクリプト高速開発手法入門 (アスキー書籍)(上田 隆一/後藤 大地/USP研究所)

(効果的な適用を考えながら基本的な技術のみを組み合わせてシステムを作るという点では通じるものがある)

マイクロサービス(microservices)とは何か

(おれの連載はまったくマイクロサービスのマの字も意識してないのだが、だがこれも根底で通じるものがあるように見える)

まだあったはずだが忘れた。

本日のツッコミ(全3件) [ツッコミを入れる]

_ shino [もし、キリスト教を比喩としれているならば、 s/精霊/聖霊 です。^_^]

_ shino [s/しれている/されている 恥(´・_・`)]

_ arton [ご教示ありがとうございます。ずっと精霊だと思っていて、なぜどちらかというと各地方の土着信仰の対象みたいなものが出てく..]


2014-07-19

_ 最近読んだマンガ

以前購入したもののまだ読んでいなかったがらくたストリートを読む。

がらくたストリート (1) (バーズコミックス)(山田穣)

これはいい。

ジャンルとしては変な日常もの(一応等身大の登場人物がふつうっぽい街に暮らしているのだが、異物がいろいろ入りまくる)だろうけど、間違えて孔子を引用する友人と知識の固まりの友人と主人公の妙に守備範囲が広い小学生3人組(+主人公の幼馴染の女の子)がまずとても良い組み合わせ。そこに宇宙人とか稗田礼二郎とか宇宙人のペットとか山の神様とかテキヤの大将とかアナログ技術者の父親とか妙に若い母親(絵が若いだけでレコードをかけるとなるとボウイとか言い出すのでおれと同じくらいの年齢なのかも)と主人公以上に守備範囲が広いお兄さんとその友人(2人の会話にはやたらと金田という固有名詞が出てくるが、アニメのスタッフオタクらしいので金田マジックの金田なんだろうけど、おれにはさっぱりわからないが、わからなくてもおもしろく読ませるんだから、作り方がうまいのだろう。おそらく、守備範囲を広く取っているから、必ずひっかかる点を押さえてあって、30の引用のうち12以上がわかればはまり込めるのだろう。というわけで金田はわからなくても稗田とかボウイとかはわかるわけで問題なし。で、そのあたりの機微をうまく会話に盛り込んでいるのがうまさの秘訣ではなかろうか)

妖怪ハンター 天の巻 (集英社文庫)(諸星 大二郎)

それにしても、それでも町は廻っているとか、このタイプのマンガの秀作が次々出てくるってのは良いことだ。

というのとは別に、以前から気になっていたうしおととらを読む。

うしおととら(1) (少年サンデーコミックス)(藤田和日郎)

なんか、女性関係を把握するためにも最初から通して読めというアドバイスをもらってなんのことだかさっぱりわからないまま、結局1から全巻読んだが、なるほど、やたらと女性が出てくるマンガだった(が、そこはあまり重要ではない)。これは確かに良い作品で繰り返し売られているのも良くわかる。マスターピースだな。

で、読んでいてつくづく感じたのが、実に少年サンデーなマンガだということだった。

1960年代に週刊の少年マンガ誌というのが出そろって、その当時の子供だったおれはほぼ全部読んでいたのだが、途中、1970年になると父親が購買対象を少年チャンピオンと少年マガジンに集約したため、サンデーやジャンプはたまに友人の家や床屋などでしか読むことがなくなったのだが、それでも1960年代の頃からのカラーはあまり変わっていないように思える。(キングも稀に読むことはあったが、まさにそういう分布だったのだろう、結局週刊誌としては最初に消えていった)

少年マガジンは、作家主義の雑誌で、カラーはその時点の主要な作家のカラーで決まる。で、なぜか主人公のヒーロー主体のマンガが多い。1960~1970年代は梶原一騎だ。水木しげるはゲゲゲの鬼太郎。赤塚不二夫はバカボンで手塚治虫は三つ目が通る。永井豪ならデビルマンだ(いやはやなんともってのもあったけど)。

こういった作品に対して少年サンデーはもう少しパターンがはっきりしている。

赤塚不二夫はおそ松くんで、藤子不二雄のオバQで、手塚治虫はバンパイアやどろろだ(いずれも大して人気は出ずに早く終わる。確かサンダーマスクもやたらと早く終わったような)。特に少年サンデーのカラーが顕著なのが水木しげるの作品が河童の三平なことで、全部(おそ松くんは直接的ではないが)、比較的普通な人たちのところに異界のものが訪問してきて居ついてしまうことから物語が始まる。鬼太郎は鬼太郎が主人公だが、三平は三平の家に居ついた河童やタヌキとの共同体のお話だし、オバQ以降の少年サンデーらしい藤子不二雄の作品はすべて普通の家に居候(怪物君は隣家にだが)として住み着いた不思議者とのお話で、遥か後になってうる星やつらを読んだら同じく普通の家に住み着いた不思議者のお話でサンデーはサンデーだなぁとつくづく思ったが、うしおととらも普通じゃないがまあモティーフは近いものがある。少年マガジンのタイプじゃない。ヒーロー主体ではなく、人間と異形のペアが主体だ。

あと、少年サンデーのマンガは少年マガジンのマンガに比べて女性が相当重視されている印象がある。もちろん巨人の星には明子がいるし、明日のジョーには紀子がいるし、愛と誠は愛が主人公だし、翔んだカップルはマガジンだが、主人公の愛ですら、重要ではないように感じる。

それに対して、BBの(名前忘れた)主人公の恋人はえらく重要だし(森山の次に重要)、うる星やつらではラムちゃん抜きでは作品が成り立たないし、あだち充のマンガも同じで女性抜きでは成り立たない。成り立たないのは、物語へ意思を持った人物として介在しているからだ。愛と誠の場合、物語の意思は作家の梶原一騎にあるから(そこがマガジンは作家主義と感じさせる点だ)、実は愛はいなくても物語が成り立つように思える。

で、うしおととらについても、作中の主要なエピソードを(途中の全員集合するところはどうでも良い気がするのだが)女性たちが支えているので、これもまた少年サンデーっぽいなぁと感じたところだ。一言でいえば、少年サンデーのマンガに出てくる女性はキャラがたっているということだな。(全然重要ではないスプリガンの女泥棒が異様にキャラだちしているのも少年サンデーのマンガということで納得してみたり)

で、家のネコを見ていて、ときどき、とらみたいだなぁと感じたりするのだが、つまりはとらがネコみたいなのだな。多分、すごく自分勝手なことを考えているのだが、そういはいってもなんだかんだと飼い主になついている感があるところとか、主人公との距離の置き方とかが本物のネコみたいだ。


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