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日々の破片

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2014-04-20

_ 大江戸Ruby会議04

土曜日は大江戸Ruby会議04で、両国。

特に印象的だったのが、3セッション。いずれもファーストコンタクトではないけれど、境界を越えることについてのセッション。

レオによる、外国人が日本で仕事を得て、生活を続けるためには、というセッション。続けるが強調点で、本当の題はなんだっけかな? persistentじゃないし。

レオに最初に会ったのは、確か、千代田区の学術会館でのRuby会議だったと思うのだが、そう考えるとずいぶん長いことになる。

オーストラリア人のレオが日本に来て、日本語を習得するまでで、DoとDo Notにうまくまとめていて、実は一番重要なことは他の何ものでもなく本人のスマートさだよなぁとか考えてしまうのだけれど、それはそれとして

・言語習得について

カルチャーを知る

たとえば、2チャンネルを読む

わけわからないコラ(というか、吹き出しのセリフ変えを何ていうんだっけ?)を見て(と、例としてジョジョが出てくる)、とにかく、この言語の話者かつ自分に関連するクラスターがそれを楽しんでいるのだから、それについて知る必要がある→ジョジョ全巻読破(ちなみに、まだの人は2部以降をお勧めとか)

英語について逆をやるのであれば、まずreddit。特にIAMA(違ったかな。有名板として紹介されただけかも)、ELI5。

次が西村さん。英語でらくらくとインタビューできるようになるために、30にして一念発起してサンフランシスコに留学して、イギリス時代のレーニンのように毎日図書館に通って英文法を勉強しまくった。レーニンは大英博物館だけど。ちなみに、その時点でTOEICは900点だったけど、全然お話にならないと実感していた。

最悪でも20000語は単語が必要だから、一日に10語覚えるとして2000日、5年は毎日勉強しなければものになるはずがないのだから、まじめに勉強しましょう。

日本人は英語を勉強している時間は長いがものにならないというけれど、だらだら少しずつ学校で勉強しているだけでは短すぎて使い物にならないというだけ。

なんか、集中せずに、9時から23時まで仕事をしているってのと同じことのようだな。

全然、そういうことは言ってなかったけど、そういう内容。

そして青木さん。並列RDBなんて1980年代からあるんだけど。エンタープライズとオープンな世界にはやはり情報、技術、基盤の違いがある。

おれは両方見られて、回り道のようだったけど、まあ良かったかな、という話だと受け取った。

技術ネタでは、mputさんの、まじめなJSON実装(RFC7159)の話が印象的。RFC7159をまじめに実装してみて、既存の実装の挙動と比べてみる。

で、おそらく上記の一番の成果物は、ヴァリッド、インヴァリッドのテストケースなのでみんな利用してね、ということなのかな。

完全に名前を忘れてしまったけど、Bundlerの人のセッション。なんか最後のほうでえらくこれは良いと思ったのがあったのだが、まったく忘れてしまった。なんだろう? 小さくなる系(もあった)のやつとは別の話だった。

ザックの中田さん伝説。育てのネコが途中で樹海へ一人寂しく帰るところで思わず涙ぐむ。だが中田さんはドライにビールを飲みながらロズウェル状態で両脇を科学者の両親に固められて栃木へ行ってしまう。

追記)どうも、自然な感覚としてファーストネームとラストネームで書き方に差がある。しょうへいのセッションと、うらべさんのセッションはおれの中では敬意等価だ。レオによる、と、チンさんによる、も等価だ。しかし、ザックとmputだとおそらく違う。多分、mputというのは識別子なのでmputさんが自然で、ザックはファーストネームのうちなのでザックが自然なのだろう。で、非日本名だとファーストネームとなり、日本名だと苗字となる。良くわからん。

_ win32x64でのメモリアサイン

ふと、akrさんからWindowsでは4GBしかメモリをアサインできないと言われたのを思い出して試してみた。

が、61Gまでいけるんだが。RubyのString実装に限定した話なのかな?

それともコードが間違ってるのかなぁ。

#include 
#include 
int main(int argc, char* argv[]) {
    const _int64 giga = 1024i64 * 1024i64 * 1024i64;
    size_t i;
    for (i = giga;; i += giga) {
        char* p = (char*)malloc(i);
        printf("%I64d = %p\n", i / giga, p);
        if (!p) break;
        free(p);
    }
    return 0;
}
結果は
c:\Users\arton\Documents\test>test
1 = 000000000136A040
2 = 000000007FFF8040
3 = 000000007FFFD040
4 = 000000007FFF7040
5 = 000000007FFFC040
6 = 000000007FFF4040
7 = 000000007FFFA040
8 = 000000007FFF3040
9 = 000000007FFF8040
10 = 000000007FFF4040
11 = 000000007FFF1040
12 = 000000007FFF1040
13 = 000000007FFF8040
14 = 000000007FFF2040
15 = 000000007FFFB040
16 = 000000007FFF3040
17 = 000000007FFFD040
18 = 000000007FFF6040
19 = 000000007FFF0040
...(略)
55 = 000000007FFF5040
56 = 000000007FFF2040
57 = 000000007FFFB040
58 = 000000007FFF2040
59 = 000000007FFFB040
60 = 000000007FFF3040
61 = 000000007FFF4040
62 = 0000000000000000

なんか微妙にポインタがずれるのが不思議なような興味深いような。


2014-04-17

_ 零下50度にはスタッドレスタイヤもチェーンもいらない

米原万理のマイナス50℃の世界を読了。

なんかえらくページ数が薄い本だったみたいだ。

良くわかっていないが、この稀有なエッセイストが世に出るきっかけとなった本らしい。TBSの取材で、イルクーツクの奥地に行くにあたって、優秀な通訳が必要ということで出て来たらしい。イルクーツクなんて、まともに行った日本人は大黒屋光太夫からこのかたほとんどいないので、筆が立つ人間に紀行を書かせることになり、毎日小学生新聞(TBSだし)を担当したのが米原万理だった(のかなぁ)。

マイナス50℃の世界 (角川ソフィア文庫)(米原 万里/山本 皓一)

何しろ、一年の8か月はマイナス50℃はあたりまえで、マイナス70℃にまでなるところに冬に行ったわけだから世界が異なる。北極や南極よりも気温は低いのだ。南の山脈にさえぎられて寒波がとどまり、海から離れているから湿潤さがまるでない。そうなるとひたすら気温は落ち込むばかり。なるほど、水は温まりにくいが冷めにくい。しかも地面は夏の間に温度を貯め込んだりはしない。氷河期の名残の永久凍土だから、むしろ0度に冷やす。

でも、乾燥し切っているから、むしろ零下30℃程度の都会よりよほど過ごしやすい(カイロに行ったとき、気温は40℃を上回っても、日陰にいると、30数度の日本よりはるかに涼しく過ごしやすかったのを思い出した)。

道路は冬しか使えない。というのは、川が多いが橋をかけられない。しかし冬には川が凍るから道路がつながって使えるようになる。(夏にシベリア鉄道に乗ったことがあるが、電信柱がみな地上30cmくらいのところに立っていて、すごく不思議だったのだが、冬になると氷で2mくらい持ち上がるからこれで良いのだと車掌に教えてもらって驚いたのを思い出した。建築するのも大変だ)

というところまで読んで、それは氷の上をそのまま車で走るってことじゃん。と不思議に思いながら読んでいると、しかし行きかう車はチェーンをつけたりはしない。むしろつけないほうが安全で、一番良いタイヤは溝がないツルツルのやつだと書いてある。で、そもそも滑るのは、摩擦で溶けた水によってうんぬん、マイナス50℃では溶けない。だから滑らない。と説明されて、おーと得心する。

室温は20℃に暖房されているが、普通の家ではトイレは庭にある。マイナス50℃あたりまえの庭と行き来することで、心臓の収縮が頻繁におこり早死にするという仮説があるのだが、実際にはコーカサス地方に次ぐ長寿の町である。食事が良いのだろうとか書いてあって、とにかく野菜なんてどこにも取れないから、馬の血を飲み内臓を食べてそのあたりの栄養素は摂取するらしいことが書いてある。食事はものすごくおいしそうだ。食ってみたい。

というか、馬と人間以外は存在しないようだ。

哺乳類ってすごいなぁ。冷血動物は生存できないところで生活しているのだ。

で、さらにどういう服なら寒くないかとか、いろいろ書いてあることすべておもしろかった。

それにしても、行ってみたいものだ。


2014-04-15

_ デセ

サントリーホールにデセーの歌曲を聴きに行く。

プログラムを見ずに聴きはじめて、最初はシューベルトなのかなぁとか思ったら、クララ・シューマンと知った。シュトラウスの1曲目のワルツでは踊りっぽい動き。

白眉は第二部のプーランクだと思う。が、ドビュッシーの異才はやはりとんでもない。

アンコールはショーソンのガブリエルのような題の曲が佳品。ラフマニノフはピアニストのためだろうか、3曲目はポピュラーミュージックかと思ったらドリーブだった。緑、赤、白と楽譜のバインダーの色がそれぞれ異なるのがおもしろい演出。ラフマニノフがあまりに変な曲で驚く。スクリアビンとプロコフィエフにはさまれて、どうでも良いハリウッドタイプの作曲家だと思っていたら大違い(と書いて気付くとマーラーとシェーンベルクにはさまれたコルンゴルトと同じ位置だな)。あらためて作品を聴き直そうと思った。

1部も2部もキラキラした服。ピアニストのカサールと並ぶとそれほど小さくないなぁと思ったが、歩くとえらく高いヒールを履いていてなるほどと思ったり。

ドビュッシー:歌曲集「月の光」(デセイ(ナタリー))

(もう廃版なのか)

この人の歌声は本当に独特に美しい。しかもエモーションを感じさせないので、なるほどオランピアが出世役になるはずだとも思うが、それが少しもネガティブな意味にならない。生身で、しかも異様な声なのでデッセという個性に裏打ちされているのに、なぜか繊細な楽器のように感じる。

それで、最近読んだばかりのフルーテッドガールをどうしても想起してしまう。もっともまったくエロティックではない。

第六ポンプ(パオロ バチガルピ/中原 尚哉/金子 浩)

非常に不思議な歌手だ。オペラを生で観ることはかなわなかったが、それでも同時代にこういう不世出の歌手がいて、その演奏を観ることができたのはとても嬉しい。


2014-04-14 DHMO

_ ヴォツェック

日曜は初台でヴォツェック。

3幕の美しさ。特にマリーの最後の歌が素晴らしい。

子供は(ヴォツックとマリーは知り合って3年なのだから2歳だが、舞台では5~6歳として表現)最後にナイフを手にしているように見える。

子供が要所要所で言葉を書く。最初はPAPA。2幕は金、3幕は売女。

ヴォツェックを最初に聴いたのはベームのLPで(フィッシャーディスカウがヴォツックだったのではないかな。忘れた)、そのときと今では随分聞き方に差があるように感じる。

演出は、ヴォツックと子供は肌色をした人間。マリーは少し白く、残りは全員白い。ヴォツックと子供だけが生きている。ヴォツックが見ている世界は、死者の世界で、この現実感の喪失は作品のテーマにとても合っている。

_ アナと雪の女王(マイルドヤンキー化するディズニープリンス)

ヴォツックは1時間30分なので、4時には終わってしまった。

バルト9でアナと雪の女王を3D字幕で観る。

エレナが山を登って城を建てるところがなんといっても良過ぎる。ラプンツェルの発展解消というか、2人に分けてモティーフを明解化したというか、そういう印象を受けた。

ミュージカルに相当近くて、ディズニー映画としては魔法にかけられて並に良い感じだった(子供に言われて気付くが魔法にかけられての最終的に妃になる人が女王なのだった)。しかし、アナとヨハンセンみたいな名前のロバに似た人の山行はもう少し歌があったほうが楽しそうだ。

本国のFrozen以外はどの国でもアナと雪の女王のような題名だと子供が言うが、もしかして、アメリカ人はアンデルセンを全然知らないのではないかという気がする(ディズニーの人魚姫は知っているわけだが)。

が、現在の日本で雪の女王がどれだけ読まれているかは疑問ではある。氷が入ると人間が変わるというところと雪の女王という名前だけにインスパイアされたのだろうな(冒頭のトロールの長老の言葉だと心臓に刺さると性格が変わるというような内容だったような気がするのだが、2回目では単に死に至ることになっていてちょっと不思議に感じた。読み間違いなのだろう)。

ということからどうせアンデルセンとはそれほど近くもないのだし、アナと氷の女王のほうが良いかなぁとか感じた。美しいのは氷だし。

イタチ公国のイタチ大臣がそれほど悪い奴ではないというのが意外だったら、本当に悪い奴が別にいるからだったとか、観ていて先が思ったよりも読めなくておもしろかった。

それにしても、王子様の世界から、美女と野獣の野獣とは言え公爵、アラジンはちょっとおいておくとして、ノートルダムでは守備隊の隊長、ターザンでは子爵子息とは言え野蛮人、魔法にかけられてでは広告代理店マンと、どんどんろくでもない地位の男とペアになり、ラプンツェルでは盗賊、ついには採氷労働者となって、次はおそらく乞食王子となるのではなかろうか。この男性側の地位低下というか収入低下というか学歴低下は実に興味深い。

雪ダルマはビルドする。

プログラムはUnixではメイクし、Windowsではビルドする。

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ jmuk [ラプンツェルが Tangled でメリダが Brave ですから、そういう一単語言い切りタイトルなシリーズなんだろう..]

_ arton [メリダって知らなかったんですが、そう言われてみればEnchanted、Tangled、Frozenの女性自立もの=プ..]


2014-04-13

_ 引き算ではなく論理を

なぜ買おうとしたのかは忘れてしまったが、多分デザインに対してなにがしかの引け目を感じているからだろうけど、フラットデザインの基本ルールという本のKindle版を買って、ちまちまと読んでいる。

フラットデザインの基本ルール Webクリエイティブ&アプリの新しい考え方。(佐藤 好彦)

iPad版のKindleで読んでいるのだが(PWでは読む気にはなれないし、おそらく読めない)、横持ちして見開きで読むと実に感じが良い。ほとんどのページ(見開き分)が、左側に能書き、右側にいろいろなサイトやアプリケーションのキャプチャとなっていて、それがうまくレイアウトされていて、本そのものがフラットデザインの基本ルールにおそらく則っているように見える。

シズル感がある本だ。

また、文体が自分のものとはかけ離れているのだが、なかなか新鮮で(とは言え、MAC POWER文体というか、このタイプの客観性を装う主観文体はある種の領域で見かけなくもないが、最近目にしていなかった)それも楽しい。自然と、フラットデザインになるのが、時代の当然の要請のような気分にさせてくれる。そうか、デザインとはアフォーダンスだった。

つまり、眺めていても、読んでいても気分良く、フラットデザイン主義に傾いて来るのだった。

その本の60%のところに、『引き算のデザインよりも、論理への愛を』というコラムがあり、それにしびれた。

フラットデザインは引き算のデザインだというが、それはおかしい。引き算しなければならないということは、すでに過剰だということではないか。

個別に考えるのではない。引き算とは、ローカルルールによる個別事情の反映ではないか。そうではなく、グランドデザインがあり、そこから個別の美が生まれる。

要約すると矛盾がわかるが、まあ、それがデザインというものだ。

で、そこで類推ロジックが頭の中を駆け巡る。

つまり、フラットデザインとは、関数型プログラミングのことだったのだ。

OOPLフレームワークを個別ソフトウェアに適用するというのは、多くの場合、まさに引き算となる。そのため、個々のフレームワークが過剰なものとなる。

類推ロジックが、ハートブリードと囁く。誰も使わない機能を追加することで、誰もまともに向き合うことなくばらまかれ、目立ちもしないので引き算することを忘れて、気付くと血が流れ出している。

過剰な機能はバグだ。

グランドデザインは、機能の組み合わせのためのフレームワークとなり、個々の美は関数としてプログラムされる。

ソフトウェアにおけるフラットデザインとして考えれば、その美しさは明らかだ。


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