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日々の破片

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著作一覧

2015-02-28

_ 申し訳ない、御社をつぶしたのは私です

読了。電車の中で3日くらい。

予想していた内容とは全然異なっていたが、悪くなかった(このタイプの本で「良かった」という評価をおれがすることは無いので、ずいぶんと褒めていることになる)。

買った時に想像していたのは、大失敗のような本だ。

大失敗!―成功企業が陥った戦略ミステイクの教訓(ジャック トラウト/Jack Trout/島田 陽介)

失敗の考証はおもしろい。

著者が、大手コンサルファームの出身ということで、当然、次々と倒産した会社に対してこうコンサルしたけど結果はこうなって、後から考えるとこれこれが間違いだった(読み不足だった、時期が悪かった、体制が悪かったなどなど)みたいな内容の羅列だろうと考えたのだった。

が、そうではなく、もう少し抽象的で、コンサルというのは~という限界があり、しかも~というビジネスモデル上の欠陥があるために、コンサルを受けた企業にとっては~となるために、うまくいかないことが多い。考察すると~していたときは成功の機運があったわけなので、実は~というのが良かったと考えられる、というような考察を経験談として複数の視点から書き起こして、結果の知見から得た新たなコンサル方法の提言と売り込みだった。

それだけならば、それほどおもしろいものではないので、途中で捨てるところだ。

が、最後まで読んだのは、次の点において、実に興味深い点があるからだ。

それはSI事業との共通点だ。

上で抽象的に~でどうしたとか書いたが、典型的なパターン(もちろんアンチパターンである)について書くと次のようになる。

ハーバードビジネススクールのX教授が成功している特定企業の性質に着目して分析した結果、成功した企業の特徴を5つにまとめ、その適用方法について本を書く。ベストセラーになる。コンサルファームの中のとびきり頭が良い連中が、その本に基づいてメソッドを開発してツール化する。ファームのコンサルはそのメソッドを身につけツールを売り込みに行く。成功したい企業はとびつく。コンサルはメソッドに基づきツールを適用しレポートを作成する。おしまい。

これって、どこかで見る光景だ。

成功したプロジェクトを分析しXO指向というパラダイムや、XO手法というメソッドが生まれる。それをSIerの中のとびきり頭が良いやつがツール化する。あるいは成功した企業がプロジェクトに適用して成果を挙げたツールが生まれる。SEがIT化に成功したい企業にツール込みで売りにいき大規模なシステムを受注する。ソフトウェア開発にはそのツールなりメソッドが適用される。大成功疑い無しだ。おしまい。

御社をつぶした著者は、ツールとメソッドに対して後付けの岡目八目で批判的になる。そうではなく、成功している場合、その成功はそれまで顧客企業ではなかなかうまくいっていなかった事業部間のコミュニケーションが全社プロジェクトに取り組む中で円滑になったり、ブレーンストーミングの過程で互いの利害関係の矛盾に気づくことだったり(それによりどの部分で協調する必要があるか気付いたり)、むしろ人間と人間関係の改善に強く依存している。したがって、ツールとツールのデリバラブルよりも、参加型の検討過程こそが重要だと考えるほうが理に適っている。

ふむ、それって、システム開発では、要件と機能での顧客巻き込みだし、機能と開発では開発者巻き込みではなかろうか。(ビジネスコンサルと異なりシステム開発が2段階になるのは、要件定義とシステム構築の2段階になるとおれが考えるからだ)

抽象的にどうあるったほうが良かったかを叙述してあるので、他の分野に当てはめた場合の合致不合致が検討しやすいのだ。そして人間活動はビジネス分野が違っても心理と本能と肉体的制約に基づいている以上基本的にそう大きくは変わらない。

ということは、この本の論点の確からしさは、おれが読んでも役に立つのだろう、と考えるにいたったからだ。

そういう視点で読むと、実はそれほど目新しいことはなく、当たり前のことの再発見の過程が書かれているだけの本ではある。しかし、再確認することは、結構、新鮮でもある。

結果的に読んで損はしなかった。おそらくおつりが来ている。

あと、最後のほうになると書くことに困ってページ稼ぎのためにやけくそになったのか、あるいはそういう計算なのか、実におもしろいツールを紹介していて、これが楽しい。

それは、「私生活ならどうか」と考えるという方法だ。仕事上の取組みがうまくいく理に適った方法なのであれば、それは仕事以外の場でもうまくいくはずであり、そして何よりも良くわかっているのは現実の私生活なのだから、そこにあてはめて考えてみるというツールだ。いろいろ例が出ていて、くだらない(ということを筆者は十二分に意識して書いているのは、それが御社がつぶれる理由の一つだからだ)。

例)戦略計画開発。(換骨奪胎して書くと)HBS出身のコンサルタントはMBAを取るべきかどうか迷っている。そこでライフコーチに今後5年のライフプランの設計を依頼する。ライフコーチチームは本人や家族、友人、ライバルと目される人などにインタビューを行い、過去の経歴などから次の計画を立てる。まずニューヨーク大学のロースクールへ入学し国際法を学ぶ。そして一流の国債法律事務所に入り、数年後には事務所の役員と恋に落ちて結婚し子供を作り、以降はパートタイムで法律の仕事を続ける。

この私生活版の戦略計画開発がもしばかばかしく見えるとしたら、それはなぜか。それが企業に対しての戦略計画開発にも当てはまると考えることはできないと考えられるとしたらそれはなぜか。

悪くなかった。

申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。(カレン・フェラン/神崎朗子)

Kindle版の問題点:巻末の原注(参考文献の記述あり)が、テキストではないためフォントサイズ調整ができない。具体的にはおれの肉体ではKindle Paperwhiteの原注を読み取ることは不可能だ(メガネをはずして超近眼モードに変更しても5cmくらいまで近づけないと判別できない)。なんだこれ? (原注を読む人間はいないという出版社側判断なのだろう。原注や参考文献を訳書から落とす出版社もあるらしいから、読めないまでも付けるだけ良心的なのかも知れない)


2015-02-26

_ メトのメリーウィドウ

東劇のメトライブビューイングのメリーウィドウ。

とても有名なオペレッタだが、オペレッタということでバカにしてこれまで聴くことなく過ごして来たのだが、いろいろおもしろかった。

まず、驚いたのは、唯一何度も聴いているオペレッタのコウモリとは全然違うということ。これに比べればコウモリはオペラだ。

レハールの1曲のみで、オペレッタはこういうものだと考えるのは間違いだとは思うが、それでもヨハンシュトラウスがコウモリを書くまで、レハールにはかなわないとオペレッタを避けていたということを考えると、多分ある程度は正しいだろう。

オペレッタというのは、歌つきの劇なのだ。オペラはセリフがある歌だし、それがドイツの連中の手にかかると、管弦楽曲に歌がありたまにセリフで筋立てを説明する音楽となり、ワーグナーで完全に歌がある管弦楽曲として完成した。

ところがメリーウィドウは全然違う。極端に言えば、音楽も歌もなくても筋が十分に進む。歌や踊りによる心持や感情を表現しなくても、セリフと動きだけで十二分に舞台が成立しているのだ。

したがって、最初に聴きながら感じたのは、優雅にくだらない恋のさや当てをほのめかし台詞で進める調子は、とても良く親しんだMGMやRKOのミュージカルだ。

まったく、アステアとロジャーズを観ているようだ。

トップ・ハット [DVD]

もちろん、歌と踊りのないアステアとロジャーズは見る気にならないのと同様に、メリーウィドウから音楽を抜いたらすさまじくつまらないスクリューボールコメディになってしまうだろう。

天国は待ってくれる [DVD](エルンスト・ルビッチ)

間違いなく、ハリウッド黄金時代の源流だ。

バルカン半島の小国の男爵はパリの公使館で舞踏会を開く。お目当ては銀行家の未亡人の財産だ。この未亡人がフランス人と結婚すると遺産はフランスの手に入ってしまう。しかし故国の人間と結婚すれば破産寸前の故国は持ち直すことができる。

彼が白羽の矢を立てたのは伯爵なのだが、この伯爵、かって未亡人が未婚の頃に彼女と随分とねんごろ(少なくとも一緒に朝を何度も迎えていたことが寝ぼけているときに明らかにされる)だったのだが、農民の娘と伯爵ということで伯父に結婚を反対されたという因縁がある。それもあって、フランス人の求婚者を追い払うことは同意するが、プロポーズすることは拒否する。

ここでフランス人の名前がブリオッシュとか非常にふざけた名前なのは、コウモリでもフランス語とフランス人名がネタになっていたが、何か、当時のウィーンの人間が楽しめる要素だったのだろうか。

2幕になると、彼女の豪邸に舞台はうつる。舞台美術では窓の向うにモンパルナスの丘(頂上にサクレクェールの白い建物が立っているのでそれとわかる)が見えて、絶妙にパリっぽさを出している。この幕では架空のバルカン半島の舞踏(どう見てもコサックダンスっぽい)や民謡(森の精ヴィリの歌で、これは実に素晴らしい曲)で埋め尽くされている。

3幕で舞台はマクシムになるのだが、今では高級料理店のマクシムは当時はムーランルージュの舞台があって、しかもバックヤードに無数の小部屋を持つ怪しいクラブだったのかなぁ。いずれにしてもそう書かれている。ここではまったくもってハリウッド映画音楽の書法そのもののカンカン踊りの音楽がテーマになっていて、これが実にしびれる。おれが好きなミュージカル映画そのものではないか。

もちろん、伯爵は未亡人に愛していると告白してプロポーズしてめでたしめでたし。

というわけで、心底楽しかった。


2015-02-21

_ 火星の人

突然思い出したが夢野久作に火星の女という作品があるが、なんの関係もない火星の人を読了。

火星の人(アンディ ウィアー/小野田和子)

ほとんど一気読みだった。いやー、堪能した。

たった一人で火星に取り残された宇宙飛行士が持てる知性を振り絞って生き延びる話だが、小説としての構成も良ければちょっと不思議な翻訳調も良く(原文は見てないし興味もないから知らないが、火星探検の自由フォーマットのログ形式をとっている部分では、敬体常体混交文になっていて、それが実に良いリズムを産んでいる。ということです。

poppenさんが最後のほうでは思わず涙とか書いていたが、なるほど、わかっていても思わず涙の感動であった。

読んでいてメタに2つのことを考えた。

1つは、無線技術の素晴らしさだ。いや本当に素晴らしい。

なんかたった一人で創意工夫をこらしながら生き延びるのっておもしろいなぁと読んでいて、あれ、この感覚は遥か昔に(もちろん最近だとゼログラヴィティとかある)味わったなぁと考えて、月は地獄だ(これは一人じゃないかったような)とかよりももっと昔、もっと子供の頃、そうだロビンソー・クルーソーだと思い当った。

ところが、そう思いながら違和感がある。ロビンソン・クルーソーは一人なのだが、こちらは地球でのNASAの職員たちの活躍も描かれている。

17~18世紀とはそこが違う。ロビンソン・クルーソーの救出に本国の人たちが動くはずがない。だいたいどこにいるか見当もつかないし。

ドリフターズで織田信長が魔導師の無線技術に心底感心するくだりがあったが、同じタイプの読み物のプロットが大きく変わるのも当然だった。

もう一つは最後のエピローグ的な独白のところだ。

死んでも当然の任務に望んでついた宇宙飛行士を助けるために何億ドルもの経費がかかったけど、それは人間だから当然だろうなぁと主人公が感慨を覚えるところだ。

いやいや、アメリカ人、それは違うぞ。自己責任という見殺しOKの呪文の国なら、君は帰って来ることはなかったよ。何億ドルだからな。

と感動しながらどうにも陰鬱な気分にもなった。


2015-02-17

_ ファットコントローラよりも怖いファットビュー

今更ながらangular.jsをいじくってベストプラクティスを探しているのだが、少なくともワーストプラクティスは見つけた。

それはファットビューだ。

<div ng-show="model.state=='initializing' || model.state=='waitResponse' || model.state=='processing'"> <!-- もっとたくさん条件があったりする -->

(ところで、model.stateがStringを取るとわかりきっていて、かつ比較対象がどう転んでもinitializingだのwaitResponseだのといったStringの場合に===を使うのは僕には過剰だと思えるが、JavaScriptプログラマはこういう場合でも===を使うものなんだろうか? 何らかのバグでmodel.stateがnullやundefinedや1000歩譲ってNumberになってしまう場合があるとしても真になることはあり得ないはずだ)

ファットビューの特徴はtell, don't ask原則に反していることだ。

ここではtell, don't askをオブジェクト自身が持つ判定メソッドを呼び出す代わりにプロパティ(この例ではフィールドだが)を参照してオブジェクトを使う側が自前で判定する意味で使っている。tell(判定せよ)ではなく、ask(今のプロパティ値は何?)を動詞にすると、使う側がそのオブジェクトの振る舞いを決定することになる。

つまり上の例だと、ビューであるHTMLが、model(ビューモデルだと思う)の状態を問い合わせてDIVの表示/非表示を切り替えようとしている。

問題は、表示するかどうかの判断をビューが行っていることにある。それはビューの責務から当然か?

当然ではない。ビューモデルにビューがついているのは偶然ではないからだ。

まず、ビューとビューモデルは一方通行だが相当密接な関係にある。呼び出しの方向から行けばビューはビューモデルを操作できる。一方のビューモデルはどう表示されるのかはビューに任せてはいるものの、何を表示するかは自分が知っている。当然、現在表示されるべきか隠されるべきかも知っているし、知らなければならない。

自分が知っているやつの状態を並べて表示すべきかどうかを判断するというのは越権行為だと考えた方が良い。

端的には、以下のようにすべきだ。

<div ng-show="model.isVisible()">
そして
isVisible: function() {
  return state == 'initializing' || ...  // とは言え、もう少し賢い管理方法はあるんじゃないか?
}

isXXXメソッドもゲッタメソッドのうちなので、model.isVisible()もaskじゃないかというような屁理屈を言うことはできるが、やはりそこは違う。ここでのisVisibleは条件判断を伴うからだ(というわけで、単にプロパティ値を返すだけのgetXXX()メソッド=ゲッタはJavaBeanのようにフレームワークが要求するのでなければ禁止したほうが良い。そもそもゲッタはアノテーションが無い時代にオブジェクト状態を永続化するために導入された苦肉の策が発祥であって、通常のコードではこれっぽちも必要ないものだ)。

今、ここに別のプログラマがやってきて、modelの新しい状態queryingServerとその状態を引き起こすコードを追加したとする。当然話の都合上、queryingServer状態も表示しておきたいとする。

最初のファットビューは簡単に、html側の修正を忘れる。正常系については普通はテストをするとはいってもqueryingServer状態は通常0.1秒で解消するとすると、Serverがハングアップして10秒くらい応答がないときに初めて発覚するバグとなる。異常系のテストをして見つければ良いけど、(異常系のテストのしやすさにもよるが)どうもコミットが無駄に2回に分かれるような予感がする。

もちろん、isVisibleの修正を忘れたり気付かなかったりする可能性もあり得る。しかし、ビューが状態を判断するのと、ビューモデル自身が表示状態を判断するのとどちらが、あり得るだろうか? コミットが2回に分かれるとしても、同じソースの修正のほうがましだという感覚がある。

逆に状態を削除する場合もある。queryServerを追加したら結果としてwaitResponseの状態は不要になったので削除したとする。

同じくisVisibleの修正を忘れたとする。でもそれは誰か気の利いたやつがふとこの状態を設定するコードがないことに気付けば削除できるかも知れない。

一方、html側から削除するのは相当至難なことになる。ビューモデル自身のコードでは設定していないのはすぐわかるが、model.stateを生でビューが見ているということは、同じく生でどこかで設定しているかも知れない。面倒だから放置しておこう……こうやってコードの窓は割れていくのだ。

ちょっと待ったと声がする。それはわざわざどこかで、$rootScope.model = new Model()みたいなコードを入れているからそのオブジェクトにisVisibleとかが定義できるのであって、コントローラが直接$rootScope.state = 'initialize'とか設定することを考えると、コントローラに$rootScope.isVisible = function() { return ... }というようなコードが入ってファットコントローラになるではないか。ファットコントローラは悪いと聞いたのでビューに判定させているのだ。これもあまり良い考えではない。ファットコントローラになるなと感じたらビューモデルの導入を考えれば良いだけのことで、ビューに条件を記述して良い理由にはならない(9600bpsの回線なのでファイルが1個増えるかどうかで速度が変わるという場合は、そもそもangular.jsとか使ってはいけない)。

あるいは根本的にisVisibleな状態を判定するのが間違いで、最初のHTMLが単に

<div ng-show="!(model.state || model.state=='idle')">

だったらどうだろうか?

状態がidleかnullだかundefinedなら非表示という判定方法なら最初の長々としたHTML記述を避けられるから問題ないじゃないか。

これは一面の真実で、だめなコードは見事なまでにだめな選択(この場合は真偽判定をif側とelse側のどちらで見るか)をしているものだ。

でもだめな選択を仮にしても問題ないようにするには、やはりビューに許すのは、ビューモデルの単一のフィールドの参照か(ゲッタはほとんど意味ないと思うのでフィールド参照は否定しない(まれにフックしたいときにはフィールド参照は困るがほとんど例外的だ)。ある意味では同一パッケージなので可視性があって当然だ)、単一のメソッド呼び出しに限定させるべきだ。というのは、HTMLを修正するよりも、コードを修正するほうが楽だからだ。早い話、HTMLで対応する)を忘れたりして文法エラーを引き起こすよりも、自前のJavaScriptの中で文法エラーを引き起こすほうが、はるかに見つけるのが楽だからだ(angular.jsの生成コード内をトップにしたスタックトレースからちゃんとエラーを見つけて修正しているやつはあまり見かけないという事実があったりして)。だめな選択をするようなプログラマが文法エラーなしのコードをいきなり書くと想像するのは無理がある。

Angular.jsの本ってどれも星が少ないけどなぜだろう?

検索結果 147件中 1-24件 "angularjs"

2015-02-11

_ メトのニュルンベルクのマイスタージンガー

東劇でメト・ライブビューイングでニュルンベルクのマイスタージンガー。演出はメトらしいというか、オットー・シェンクのコスプレものでおもしろくはないが悪くなかった。

特筆すべきはレヴァインの指揮で、単純なハ長調のどうでも良い(退屈でもある)曲が、特に中盤以降の弦の鳴らし方と細かなフレーズごとの緩急の付け方でびっくりするほどの名曲に聴こえる。それにしてもワグナーの管弦技法は見事だが、それ以上にレヴァイン(とそれに応えるオーケストラ)が素晴らしい。

ヴァルターはヨハン・ボータで、巨漢だ。声が良いヘルデンテノールだが、どうにも不恰好で、オットー・シェンクの演出だから悪くないが、一歩間違えればファルスタッフにしか見えないのが難点だ。一方のザックス親方のミヒャエル・フォレ(初めてかな?)は、最初の組合の会合シーンの斜に構えた感じと顔つきがどうにもビートたけしのようでなんか奇妙なのだが、これまたオットー・シェンクの演出ではそれが良い。

この話は5.5個の物語を持つ。

1つ目は語られる物語だ。

騎士ヴァルターは教会(あるいは市民の集会所)の外でうろうろしている。領地を売り払うときに世話になった金細工師のポークナーの娘のエファが気になっているからだ。娘もヴァルターを気にする。讃美歌(あるいは祝祭歌)の稽古が終わり、みんな出てくる。ヴァルターはエファに婚約者がいるかをやっとの思いで(さんざん勿体をつけるというか、照れているのだ)聞く。いるのだがいない。聖ヨハネの祭りのマイスターによる歌合戦の勝者と結婚することになっているのだ。すると、おれにもチャンスはあるね? (という会話の間にエファの乳母といっても相当若いマグダレーネをどかすためのエファとマグダレーネの掛け合い漫才が入る) 結局ヴァルターはマイスターになるための方法をマグダレーネの恋人で靴屋のザックス親方の弟子のダフィトに教えてもらうことになる。

ダフィトはダヴィデで、エファはダビデの絵姿を好きなのだが、それは全然関係しないのが良くわからない命名規則だ。ヨハネの祝日のヨハネはドイツではハンスになり、それはザックス親方の名前だ。

ここまでで、見た目はマグダレーネが30代、ダフィトとヴァルター、エファは20代前半くらいかなぁと考えるのだが、16世紀を舞台にしているのだから、実際はマグダレーネが20代前半、ダフィトが15歳(小学校がない時代の職人の弟子、それも1年目だから10歳でもおかしくはない)、エファは13歳、ヴァルターは14歳のまさに中二病まっさかりだと考えるのが自然だ。(当然、ザックス親方とポークナー親方は30代半ば、ベックメッサーが20代後半くらいとして考えないとおかしなことになるが、演出上の見た目は親方たちは余裕で50代の老人に見えるのがオペラ、実際には楽劇だが、の妙なところだ)

親方(マイスター)たちが集まって市議会のようなものを開く。ポークナーが聖ヨハネの祭りに、市民(職人)というのは金の亡者ではないという心意気を示すために、自分の娘と財産を芸術のために捧げることにする、つまり歌合戦の勝者と結婚させると提案する。ザックスはいっそ市民たちに勝者を選ばせたらどうだと提案し、皆の反感を喰らう。ベックメッサーは結婚したくてたまらないので、自分が勝つつもりでいる(劇としては愚か者の役になっているが、物語としては楽器の腕前は天下一品、楽式に則った作曲もピカいちという設定である。ただし、詩作は弱い)。ベックメッサーとしてはライバルは詩作の天才ザックスで、彼はやもめなのでエファをやはり狙っているだろうと考えている。そこでザックスの作曲能力をくさしまくる。大衆受けを狙った下品な代物だうんぬん。お前の靴はだめだ。明日までに直せ。

そこにヴァルターがマイスターとなるための歌の試験を受けにくる。みるからにエファ狙いは明らかなので演奏の記録係でもあるベックメッサーはひどい点数を付けてやろうとする。だが、そんな必要はなく、ヴァルターは楽式を知らないため自由奔放に心の丈を歌にする。親方一同うんざりする。しかしヴァルターの知り合いで人柄を知るポークナーは、こいつとエファが結ばれるのも悪くないなと考える(おそらく)。ザックスは作法に則ってはいないものの、まさに芸術としか言いようがないヴァルターの天衣無縫な歌に天才を感じ取る。いずれにしてもマイスターたちから失格の烙印を押されヴァルターは憤然として去る。(しかし回りで聴いていた徒弟たちはヴァルターの歌に魅力を感じているのだ)

その夜、ザックスは考える。芸術とは何か? エファが訪ねてくる(ザックスの家とポークナーの家は通りをはさんだ対面なのだ)。ヴァルターが落第して歌合戦に出られないのなら、幼い頃から面倒を見てくれたザックスと結婚するのも悪くない。さらにヴァルターが登場し、ザックスはヴァルターとエファが愛し合っているのを知る。それは自然だ。ところが不自然なベックメッサーが求婚歌をエファに聞かせに(祭りの予行演習をかねて)やってきて窓辺で歌を歌い始める。実際にはヴァルターと会うためにエファは家を出ているので窓辺にいるのは変装したマグダレーネなのだが。いずれにしてもザックスはヴァルターに教えたいことがある。そこでベックメッサーの邪魔をしまくる。お前のために靴を直しているんだからしょうがないだろう。あまりの騒ぎに市民が大勢出てくる。

一方、ダフィトは変装しているが窓辺にいるのがマグダレーネということを見抜き、謎の男が恋歌を歌いかけていると勘違いして襲いかかる。かくして大乱闘が始まる。

ザックスは混乱に紛れてヴァルターを自分の家へ呼び込む。

朝、ザックスはヴァルターにマイスターの歌を満たすための楽式を教える。バースは3つのパートから構成される。最初のパート。次のパートは最初のパートと同じ韻で言い換える。それによって強調させ安定させる。最後のパートは別の韻、別の旋律を使いまとめるのだ。それは男と女が出会い、子供となって結実するようなものだ。その安定感があって初めて人びとは調和を感じるし、そのようにしなければマイスターたちも納得しない。君の自由奔放な歌は素晴らしかったが、人々を不安にさせるのだ。男女は結婚により結ばれて子供を作り良き家庭として市民の輪に加わる。ヴァルターは見た夢をザックスの教えによって詩に変えながら歌う。ザックスは詩を筆記する。2バースまで歌ったところでヴァルターは歌をやめる。3バース目が必要だとザックスは言うのだが、ヴァルターは歌わない。まあ、良い。今の詩を覚えておきなさい。ヴァルターの従者が持ってきた婚礼の衣裳に着替えさせるために二人は奥に引っ込む。そこへベックメッサーが登場し、店を荒らした後、机の上の、ザックスが書き留めたヴァルターの詩を見つける。そこにザックスが戻って来る。ベックメッサーは天才詩人ザックスの求婚歌と勘違いして、ザックスに作者はザックスだと言わないことを誓わせて持ち帰る。

入れ替わりにエファが来る。着替えを終えたヴァルターも来る。ヴァルターは3バース目を歌う。素晴らしい。ザックスは賞賛し、これこそマイスタージンガーの歌だと、歌の命名式を行う。ちょうど来たマグダレーネとダフィトを証人として命名式を行う。証人とするにあたってダフィトを弟子から職人に格上げする。平手打ちの儀式。この歌の名前は、朝の夢の解釈だと告げる(翻訳が固いのでいかにも職人的というかドイツ的というか質実剛健過ぎる名前でおもしろい)。

歌合戦が始まる。ベックメッサーの古風な旋律は詩に合わないだけならまだしも、ヴァルターのイメージの奔流による言葉のつなぎのむずかしさから、どんどん間違えて前衛的な詩となり、解剖台の上でミシンとコウモリ傘が衝突を繰り返すために会場の大爆笑をかってしまう。怒って、この詩はザックスがおれを陥れるために作ったのだ、と自分で暴露する。するとザックスは、実はこの詩の作者は自分ではない。その証人として本当の作者に歌ってもらおうと、ヴァルターを招き寄せる。ヴァルターは、ザックスの家で歌ったものからさらに変えて歌う(書き留めた言葉はどうでも良いのだろうけど)。みな感動し、ザックスの手際の良さを褒め称える。当然のように、優勝者としてヴァルターにエファが花冠を与える。さらにポークナーがヴァルターにマイスターの称号を与えようとすると、ヴァルターは憤然としてそれを拒否する。何をいまさらだ。するとザックスが横から入って来て、若者よ、それは見当違いだ。マイスターに敬意を払いなさい。彼らが芸術を守ってきたのだ。神聖ローマ帝国が滅びても、マイスターがドイツの芸術を守る限り、ドイツは不滅なのだ、と説教を垂れる。ヴァルターはおとなしくマイスターのメダルを受け取る。エファはこの結末に、花冠をザックスへ与える(が、当然、結婚相手はヴァルターなわけだ)。

2つ目の物語は、トリスタンとイゾルデの和声進行に対して音楽の破壊と決めつけたハンスリック(ベックメッサー)に対して新しい芸術の担い手であるワーグナー(ヴァルターでありザックスである)の勝利宣言だ。

2.5個目の物語は、リストの娘のコジマとワーグナーの物語である。

3個目の物語は、ドレスデン革命に参加したワーグナーならではのブルジョワ(市民)革命の物語である。王侯や貴族は芸術の庇護者ではなくなり、職人が芸術を守る、その芸術こそがドイツだと言っているのだから(唯一出てくる貴族は領地を売却して職人の娘と結婚しマイスターとして市民化することに決まったヴァルターだ)これは19世紀のブルジョア革命の物語である(そしてフランスと異なりドイツではそれがなかなか進まなかった)。

4個目の物語は、ニュルンベルク党大会でありレニ・リーフェンシュタールの意志の勝利だ。

意志の勝利 CCP-209 [DVD]

そして5個目の物語はワーグナーのひ孫のカタリーナ・ワーグナーが作った全く逆転させた物語だ。ベックメッサーは間違えることで、無から有を生み出しアダムとエヴァを誕生させる。それに対してヴァルターは本来の自由を失い、単なる操り人形劇の伴奏曲を歌う。ザックスは神聖ローマ帝国が滅亡した後に続く第3帝国を出現させる。

あえて無理矢理ベックメッサーを新しいものを生み出したことにしてザックスを腐すことで、4個目の物語をひ孫自身が強調することで逆に打ち消した(あるいは毒消しをした)のだろうけど、成功しなかったようだ。

ワーグナー:《ニュルンベルクのマイスタージンガー》 バイロイト音楽祭2008 [Blu-ray](ワーグナー/ヴァイグレ(セバスティアン)/バイロイト祝祭管弦楽団/フォークト(クラウス・フローリアン)/ハヴラータ(フランツ)/コルン(アルトゥール)/カウネ(ミカエラ)/グーバー(カローラ))

(だが、フォークトがヴァルターなのだ)

というわけで、4個目と5個目の物語はあるのだが、それでもザックスの、つまりはワーグナーの最後の言葉は実に正しい。

国体が滅びようが、政府が別のものに取ってかわろうが、それはまったく重要ではない。

結局、カタリーナ・ワーグナーが4個目をそのまま楽劇として提示した以上、オットーシェンク流のオーソドックスなニュルンベルクのマイスタージンガーに回帰せざるを得ないのかも知れない。

それにしても良い演奏だった。4番目と5番目の物語があるにしても、ユダヤ人以外の何者にも見えないレヴァインの素晴らしい指揮がすべてなのだった。


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