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新国立劇場の中劇場でスリーキングダムス。
鞄に詰められた生首をイギリスの刑事が追っていくと生きたままノコギリ引きされたとか、異様な犯罪の姿が立ち現れる。この刑事の上司が絵に書いたような冤罪発生装置で気分悪い。それはそれとして首切断のビデオが手に入ると主人公はやたらとそれを見続ける。
犯人をさらに追ってハンブルクへ行くと現地のやたらと調子が良い刑事が相手をしてくれる。上司はドイツ語がまったくわからないので主人公の刑事がやり取りする。彼はドイツの大学に留学していたことがありドイツ語は普通に話せるのであった。上司とドイツ警察と主人公のやりとりは完全にコメディとなっていて実に愉快だ。が、主人公の動きは怪しくなってくる。
さらに舞台はエストニアに移り、4人のゴッドファーザーに被れていると説明される半グレ集団みたいなものが出て来る。この4人のやり取りは楽しい。
最後犯人はドイツ警察の手によって捕まり主人公はイギリスへ帰る。
が、この作品の主眼は全然犯罪捜査ではなく(事実、犯人はするすると各国警察のお膳立てに乗って捕まえることができる)、主人公が忘れていたかあるいは隠し持っていた心の闇を再発見する旅というものだった。したがって最後のあたりでは、どこまでが実際に起こったことなのか判別はできなくされている。
一見普通の犯罪ドラマのイギリス編、コメディのドイツ編、ギャング物のエストニア編と、観ていて飽きさせない構成になっているし、実際おもしろかった。が、事実と悪夢の混成部はちょっと退屈した。これは我ながら不思議だった。
新国立劇場で新演出のヴォツェック。指揮は大野。やはり美しいところの美しさはうまいものだ。
本来はヨハネスマイヤーがヴォツェックだったが体調不良で駒田敏章に交代。が、わりと端正な顔に小柄(少なくとも医者の妻屋や鼓手長のダザックに比べると貧相と言っても良い)なところが、ヴォツェックのイメージにとても近いので、歌唱力というかシュプレッヒシュティンメ力合わせて、むしろ良かったかも知れない。
今回プログラムを読んでいて初めて知ったが、ヴォツェックは大ヒットして再演に次ぐ再演、ただでさえ大金持ちのベルクはさらに儲けたらしい。
さすがにこれは疑問に感じる。いくら退廃的大好きウィーンの人々であっても、ここまで陰鬱で不協的なオペラを喜んで観まくるものだろうか?
貧乏な床屋が徴兵されて軍隊の上官からは虐待され、小金を稼ぐためにおかしな医者の異常な精神療法の被験者となり(演出では、極端な偏食指導をくそまじめに受けている様子をこれでもかとしつこく描写する)、内縁の妻には浮気され逆上(静かな)して殺して本人も錯乱して溺死、残された子供は木馬で遊ぶ(が、この演出ではヴォツェックと同じ行動を取らされるので、貧困の再生産性が極端に強調されている)。
とすれば、ヒットの原因として考えられるのは、観客の琴線が鳴らされまくったからだろう。
初演は1925年なので、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間、ドイツは社会民主主義時代だが、オーストリーは混乱しまくっていたらしい(ハプスブルク帝国は当然崩壊している)。
ヴォツェックが実は高い知性を持っていることは頻繁に行われる聖書の引用や1幕1場での大尉の難癖に対する論理的な反駁で示される。教養人ではないのは貧困が原因で、おそらく家の唯一の書物である聖書しか手にすることができなかったからで、自由な読書環境があれば優れた教養人となっていたことが想像される。敗戦国となり戦後補償のせいで貧乏となったが、文化は圧倒的に高いオーストリーそのものにも見える。
妻のマリーは名前からして不吉だ。同じくオーストリーでこちらは1920年に初演された死の都のマリーを想起せざるを得ないし、当然それは作中で引用されるマグダラのマリアだろうし、そもそもは聖母のほうのマリアの名前だ。
マリーを奪う鼓手長の髭面(大尉による下品なからかいのネタにもされる)からは、ハンガリーをはじめとするハプスブルク帝国東側の諸国の喪失が暗示されなくもない。
結局のところ第3帝国(大ドイツとすれば当然オーストリーは含まれる)の東側への侵攻と自滅、その後の苦難(ドイツ零年だ)を予兆させる作品であり、それがヒットの理由なのではなかろうか。
[Unit] Description=tDiay-server After=syslog.target network.target nginx.service [Service] Type=simple WorkingDirectory=/home/ubuntu/public_html/diary ExecStart=/usr/local/bin/bundle exec bin/tdiary server User=ubuntu # 実際はdebianなので違うけど Group=ubuntu UMask=0002 RestartSec=10 Restart=on-failure StandardOutput=journal StandardError=journal SyslogIdentifier=tdiary [Install] WantedBy=multi-user.targetをtdiary.serviceとして
sudo cp tdiary.service /etc/systemd/system sudo systemctl daemon-reload sudo systemctl enable tdiary.service sudo systemctl start tdiary.serviceログを見るには
sudo journalctl -xeu tdiary.service
新国立劇場小劇場で焼肉ドラゴン。新国立劇場のアトレという月刊誌でやたらと取り上げているので、なんか観ないわけにはいかない気分にさせられて観に行った。
なるほど、これは実に良い演劇だった。
開演前から劇場内は焼肉の匂いが漂っているし、舞台上手の焼き肉屋ではおっさんたちが楽器を鳴らして昭和歌謡大会をしているはで気分は確かに1960年代末期(ちょうどおらは死んじまっただー、でこれは友人がレコードを持っていたので、1968~9年と知っている)の雰囲気が濃厚。
1970年のこんにちはが舞台なのかと思ったら、1969~1971の2年間の物語だったのだった。
ブルーライトヨコハマとか伊勢佐木町ブルースとか、焼き肉屋の3女(歌手志望)が歌いまくる。
哲男という次女の結婚相手があまりにも乱暴で気分が悪いのだが、物語が進むにつれて実はインテリ(学問修めたからってどうにもならんのはおれを見りゃわかるだろう、というようなセリフがある)で、共産党に加わったり、各種の解放運動や労働争議を戦ってきたということがわかり、社会の壁やら長女との心の行き違いやらから自暴自棄となっているのだなと理解できたときには、別れは近い。
最後、北、南、日本(少なくとも親元ではない)に3人の娘が別れていくが、なんとなく哲男の性格と来し方から、すくなくとも主体思想全盛の北ではそれなりに出世しそうに見える(正日時代になるとどうだかはわからんが)のが救いのような気がしないでもない。
屋根の上からの光景が2回語られる。最初はほぼ説明抜き、次は細かく説明で、特に2回目のシーンは1回目の思い出が残っている状態で演じられるだけに美しさがすごかった。父親役のイヨンソクという役者は抜群だ。
シナリオは緩急自在、笑わせるところは徹底的に笑わせる。特に終幕の太陽の塔のおみやげとリヤカーの2連発は死ぬかと思ったし、繰り返しギャグ(親友と抱き着くとか、碁盤ひっくり返しとか)も冴えている。
これは確かになんども演じられる傑作だと得心した(難点があるとすれば昭和歌謡が完全に過去のものとなったときに、コンテキストが消え去ったときだろう。もっともアリラン以外の韓国民謡は知らないわけだが、観ていて退屈するわけでもなんでもないので、問題ないのかも知れない)。
これまで知らなかったが、済州島の虐殺(米軍と李承晩による。日本はこれについては関係なさそう)に軽く触れられるのだが、台湾の2.28と同じく、日本撤退後の旧植民地での権力闘争は熾烈だったのだな(日本では表立っては血のメーデー、レッドパージと山村工作隊闘争くらいしかなく、虐殺レベルの問題は起きなかったのはラッキーだったのかも知れない)。
妙にテンポ感が異なる指揮者で序曲(とは言い難い短さだが)からびっくりというので、ものすごく楽しみにしていたのだが痛恨の極みで、いつも通り14:00からだろうと13:30くらいに着いたら、なぜか13:00開演で既にミミが歌い始めていた。結局、モニターで女神のあたりから聴いて2幕から入場できた。
噂のテンポ感については、ムゼッタのワルツがびっくりするほど(確かにびっくりさせられる)ゆったりとしたワルツではなくレントラーかというような(レントに引っ張られているのであって、本当にレントラーの速度かどうかはあまり関係ない)速度だが、歌手(伊藤晴)がちゃんとついていっているのも凄い。結果として限りなく甘美な歌となって、これはどれだけ固く石のように冷え切っているマルチェッロでも振り向かざるを得ないだろうと舌を巻く。逆にマルチェッロのおれの心はまだ熱いが相当薄まってしまったような気はする。
3幕も実に良い。
ガンチのロドルフォは実にきれいな声で抜群。
4幕、それまで他の歌手に比べて声も低いようなどうにもいまひとつに感じていたミミ(マリーナ・コスタジャクソン)も良く、ちゃんと一幕から聴いていなかったせいで気分的に受け入れられなかったのかな? と思う。
それにしてもこの演出(というよりも今回の字幕、いつもと変えているとは思えないのだが)のショナールの「もって半年だな」とか、いろいろショナール(駒田敏章)が目立つ。
目立つだけに、それまで気にしたこともなかったが、プッチーニが脚本にいちいちダメ出ししまくったという逸話とあわせて、ジャコーザとイリッカが本当にいちいち余計なことを言って不快な野郎だから音楽家は一言多いダメ男にしてやろうと相談してああなった(が、コリーネに諭されて改心するわけで、ここにも実は何か実際のエピソードがあるのかも知れない)のかなぁと考える。
いずれにしても、どうにも、これまで観たどのラボエームよりも素晴らしかったように感じるだけに13:00開演を逃したのは痛恨の極みだ。
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